チューチューチュー、ネズミがチュー

 何日か前、某喫茶店にて。夜の10時すぎ、安コーヒー1杯で長時間粘り、翌日までの仕事を片づけていた。すると、となりの席から聞き覚えのある声が聞こえてくる。あれっ、と思って横目でうかがうが、知らない顔である。20代後半の男性である。連れが2人、いずれも男性である。片方は、やはり20代後半くらいか。もう一方は、20歳くらいの、話の内容から察するに大学生。
 最初の20代後半の男がもっぱら演説をし、大学生に向かってさかんにアジテーションかましている。なんか声だけでなく、話し方やアジテーションの内容にも聞き覚えがあるんだよなあ、と思ったが、そうだよ、思いだした。
 昨年の12月のことであった。やはり同じ喫茶店で私はつい聞き耳をたててしまい、その模様をこの日記にも書いたのだった。そのときのアジテイターA氏が、となりでしゃべっているのである。
 再録すると、A氏はその日の若人に向かってこんなことを言っていたのであった。

「流れ星が落ちる前に3回願いごと唱えるとかなうっていう話聞いたことない? あるでしょ。なんであの話広がったんだと思う?」
「俺が思うにね、あの話ウソじゃないんだよ。3回唱えたら本当にかなう。絶対。強くイメージしたらできないことなんて何ひとつない。成功してるやつらはみんな知ってる。だから、あの話は広がったんだと思う」


 あのとき私は、A氏がどこかの会社のリクルーターであり、彼の話に聞き入っている方の男は採用が内定済みの学生、と見当をつけていた。だが、見当違いだったらしい。
 聞こえてくる話の内容はかなりやばい。
 話の都合上、A氏と同年代にみえる相棒をB氏、で、大学生を、そうね、「鴨田くん」と呼ぶことにしよう。
 感心したのは、A氏とB氏のチーム・プレーである。この2人が、鴨田くんをいわばオルグしようという図。
 おそらく、そういう「台本」なのだろうと思われるが、A氏はしばしば席を外す。彼はほとんど席にいない。A氏不在のとき、鴨田くんはB氏に対してタメ口で話す。というか、B氏が鴨田くんに対してそうするように仕向けているのだろう。結果、鴨田くんはリラックスしてお兄さん風のB氏と趣味などについて雑談を交わす。
 そうしているうちに、A氏が現われ、弁舌巧みに――まさに立て板に水といった風情でしゃべるのだ、この人は――鴨田くんを説き伏せていく。
「そう難しいことではないんだよ。オレだって学生ンときにこの仕事を始めたんだから。大学通って週5でファミレスでバイトして、それでも続けられた。オレたちの仲間にはサラリーマンやりながらこの仕事を続けているヤツもいる。要はやる気の問題だよ。鴨田くん、やる気はある? オレはそれだけを聞きたい」
「はい、やる気はあります」
「そんなら大丈夫だよ。鴨田くん地元は東京でしょ。だったら高校の同級生なんかもたくさん近くに住んでいるんだろ。条件は恵まれてるって、地方出身の人に比べればずっと。富山出身のヤツがいるんだけど、それでもそいつ今じゃあ200万のロレックスしてるくらいで。要はやる気。そのかわり、やる気がないならしんどいよ。オレも、やる気ありませんって言うヤツと一緒にやる気はない。すぐにこの場でこの話断った方がいいと思う。どうする?」
「やる気はあります。がんばります」
「そう。なら、絶対キミは成功できる。こんだけ欲しいって思ったぶんだけ儲けられる。そしたらね、明日までにちょっとした作文を書いてきて欲しいんだわ。鴨田くんが大学出てからどんな将来設計してるのか。何年後に結婚して子どもは何人欲しいとか、どういうところに住みたいのかも含めて書いてもいい。できるだけ具体的に。じゃあ、頑張ろうぜ」
 A氏はそう熱っぽく語り、鴨田くんと力強く握手したところで、席を外す。面白いことに、A氏が消えると、その弁舌に煽られてすっかり上気した顔つきの鴨田くんもだんだんとテンションが下がっていく。そりゃ不安にならないはずがなかろうと思う。ところが、そこで残されたB氏が、その不安をやわらげる役割を果たすわけである。
 B氏は、いかにもやり手という風采のA氏に対し、どこにでもいそうな少しシャイな若者といった風貌。そのB氏が、オレでも充分やっていけているんだから、というようなことを訥々と言って聞かせながら、鴨田くんのおそれをほどいていくのである。
 一方が「厳父」の役目を演じ、もう一方が父子の間を仲介し、その緊張を緩和する「老婆」の役目を果たす。こんなベタな人心掌握術が有効なものかと疑うのだが、実際にうまくそれがハマっている現場を目にすると、感心してしまう。
 ところで、人生設計に関する作文を課す、というのは、先にリンクした日記に書いたように、A氏が半年前にも使っていた、モチベーション強化のノウハウらしい。「願いをイメージせよ。さらば叶えられん」。
 さて、私の席まで聞こえてくる話は断片的で、もちろんそこから全貌を知ることはできなかったのだが、断片を総合して判断するに、鴨田くんはちょっとやばい話に足をつっこみかけている。

  • 鴨田くんは、これから「講習料」の名目で、ローンを組むことになるようだ。その手続きの書類を作成していた。
  • A氏およびB氏は、信販会社から本人確認の電話が鴨田くんの自宅にいく旨を説明している。「信販会社の人間は、電話で会社の名前を名乗らないから、(ローンを組むことを)家族に知られるおそれはない。ただ単に鴨田くんという人間がその家に住んでいるかどうか確認するだけだから」とのこと。
  • A氏は、鴨田くんに、さりげなく――そう。このさりげなさが聞いていて見事に思った――「われわれ」や「仕事内容」のことを友人や家族に他言しないよう釘をさしていた。いわく「契約前に情報が漏れると、あとあとキミが仕事をやりにくくなる。契約書を作ってから、もっと細かな必要な情報や勧誘のノウハウを教えるから、それまで友達に声をかけるのは待ってほしい」。
  • 仕事内容とは、何らかの商品を友人に勧誘し、購買をすすめることのようだ。「まあ、はじめのうちは友達に会ってパンフレットを置いてくるだけだから。簡単よ、簡単。ノルマとかもないし」とのA氏談。

 うーむ。それってマル○商法みたいなものじゃないのか。だとすれば、そりゃ「ノルマ」なんてないだろう。損失は出したぶん丸ごと自分でかぶるってだけの話だから。
 鴨田くんは大丈夫だろうか。彼が書類とにらめっこしながらB氏に質問したひとことが、印象的だった。
「ここに書いてあるクーリング・オフってどういう意味ですか?」
 他人事とはいえ、ちょっと心配だ。