沈没するのは「日本」なのか?

 中学ぐらいの頃、小松左京を片っ端から読みふけっていた時期があった。『日本沈没』も読んだはずだが、なにせ20年近く前のことで内容まではよく覚えていない。
 さて、この作品のコミック版が、しばらく前から『ビッグコミック スピリッツ』で連載されている。少し期待して最初の何週か読んでいたのだが、これは私にとってちょっと読むにたえない。小松の原作はたしかそうではなかったと記憶するのだが、今回リメイクされたコミック版は、単なる「憂国の士」の成長物語になり果てている。
 主人公は、天才的な操縦技術と勘をもつ潜水艇操縦士。「日本」という国家に失望し、シニカルに構える主人公が、「日本」沈没の「危機」を憂え行動する周囲の志士たちに徐々に感化されながら覚醒していく、という筋立てらしい。ふん、くだらない。
 もちろん「くだらない」というのは私の趣味判断にすぎないわけだけど、この作品が決定的にダメだと思うのは、そういう憂国の志士たちの英雄性を強調するための仕掛けである。
 「日本」が地殻変動によって沈下していくこと自体に誰かの責任を問えるわけでもないし、外国といくさを交えようという話でもないのであるから、「悪」としての外敵が描かれるのではない。したがって、この物語は、主人公たちが「悪」に立ち向かうことによって輝きを得る、という構図にはならない。かわりに、危機感の薄い大衆だとか、決断力に欠ける政治家だとか、要するに「平和ボケした日本人」たちが、主人公らの引き立て役を演じるのであり、その英雄的行動を際立たせるのである。ぎえええ。
 そういうわけで、日本人の「危機意識」の低さ、「平和ボケ」ぶりが、これでもか、これでもかと描かれるのである。で、そういうアホ面下げた日本人を、エリートたちは絶望せずに救おうと、獅子奮迅のご活躍ばしてくださるのだ。えらいね。ありがとう。
 こういう物語に没入しようとしたら、アホ面どもを見下す、鼻持ちならぬまなざしに同一化せねばならんのである。
 むろん、この物語で描かれる、「日本」が沈没するという状況は、何らかのメタファーなのであろう。はじめに作者なりの現実に対する何らかの「危機意識」があって、それがメタファーによって形を与えられていくという描き方がなされているならば、読める作品にはなると思う。しかし、この作品の場合、「日本沈没」という荒唐無稽な状況のみが、それの対応するオブジェクト・レベルを欠いたまま、空転して描かれているように思える。
 「現実」を反映する作品こそがすぐれた作品だという考え方を私はとらない*1けれど、メタファーとしての作品世界と、それが描こうとする対象との往還的思考を欠いた作品というのは、やはり読めない。この『日本沈没』の場合、「危機」とは単なる精神的に今日の「日本人」が「ぶったるんでいる」ということ以上ではなく、マテリアルな、というか他者との関係におけるあつれきが生み出すような《危機》ではない。
 私がかつて(80年代)小松左京の原作を読んだとき、東西冷戦と核戦争の《危機》という時代的な文脈がたしかに存在していたのであって、その作品はメタファーとして読みえたのではないかと思う。ところが、今回のコミック版『日本沈没』は、90年代なかばころからしきりと流通している「日本人の平和ボケ」という、内向的で空疎な言説をなぞっているだけだ。「危機意識」のみが、その対象を追及する志向を閉ざしたまま空回りしている。いわば日本人の「危機意識」の不在に対する「危機意識」を煽るという、自己言及的で空虚な回転を演じているにすぎない。「危機意識」のないことが「危機」なのだ、という。
 たしかに、陸地が異常気象によって沈没していくという物語上の設定は、環境破壊という《危機》のメタファーたりうるし、この作品をそう読むことも不可能ではないかもしれない。しかし、だとすれば、なぜそれは「日本」の危機として描かれるのか。
 今週号(7月17日発行の号)では、煮え切らない態度をとる主人公が、極秘の国家プロジェクトに誘われるというシーンが描かれている。主人公は、報酬と高性能の艦への技術的興味に釣られるかのようにふるまい、「いいですよ、参加しても僕は別に」と応じる。これに、プロジェクト側の人間は「そういう『金で動いているフリ』だけの決意では困るんだ」と覚悟を迫るシーン。

「会社にも
 この国にも
 用がないなら、
 可及的速やかに
 海外に出て、
 "君個人"としての才能を
 発揮してくれ。」


 つまり、「この国」のために尽力するか、それとも「海外に出て」個人主義的な行動をとるか、この二者択一が迫られるわけである。おかしな話である。「日本」のために働くことのみが私的な動機を超えることであり、「海外」に出ることはすなわち利己的にふるまうことにすぎない、という図式。
 しかし、沈没するのは「日本」なのか。「日本」が沈むとき、北は北海道から南は沖縄まで、現日本領とされている所が、きれいに全部沈むのだろうか。それでいて、台湾や朝鮮半島済州島は無事だったりするんだろうか。竹島はどう扱うんだろうか。
 現時点の連載では、まだ「日本」は沈没していないのだが、これからどう沈没するのだろうか。私にとって唯一先行きが気になるのは、そこだけだ。「日本」の領土のみが余さず沈む、ということでないと、この物語は整合性がつかないと思うよ。

*1:というのは、描かれ形を与えられるのに先だって「現実」なるものが存在する、という見方を無条件にとることはできないという意味で。