非対称の世界

 今週はコエガッタ(しんどかった)っす。
 月曜から、右だけ肩凝りという妙な状態で、手を肩より上に持っていくとつらい。週も終わりに近づく今日になって、痛みは背中に広がり、また上腕から肘に降りてきて、おお、ここに神経が通ってんだなと実感する。首を右に曲げるとゴリゴリと痛みが走る。
 原因は、おそらくパソコンのマウス。右手で動かすと激痛が走るので、昨日からマウスのボタンを左利き用に設定変更し、左手で扱っている。これはすぐに半分は慣れた。「半分」というのは指や手首のマウス操作はほとんどスムーズになったということ。
 ところが、おもしろいことに、脳はそれに適応しきっていない。たとえば、タスクバーのスタートボタンから「プログラム→アクセサリ→……」というふうに展開していくとき、なんて言うのだろ、オプションの記された窓みたいのが右方向に開いていくわけだが、それが何とも変な感じに見えるのだ。マウスを右に動かさなければならないところで、ついつい左に動かしてしまう。それどころか、1日たって解消されつつあるものの初めのうちは、マウスを持ちながらウェブサイトなどを見ていると、文字が左から右に向かって走っているという当たり前の風景に違和を感じるのであった。
 さて、これはどういうことなのだろう。私は先に「脳が適応していない」と書いたけれども、それは正しくないのかもしれない。脳はある意味、適応していたのではないか。つまり、右手使用から左手使用にスイッチするのに合わせて、私の脳はその認識する世界を左右反転させて対処しようとしているのではないだろうか。
 この意味での「適応」は、自然物を相手にしているときには、たぶん有効だ。たとえば、私がふだんと逆の手に槍を持って、獲物の鹿を追っかけているというような場面においては。
 しかし、左右非対称の人工的世界においては、反対にこの種の「適応」はアダになる。たとえば、野球で守備につくとき、ボールを投げる腕を右から左にスイッチしたら、おそらく脳は混乱するだろう。一塁に送球すべきときに、私の脳は三塁に投げるように指示を出そうとするのではないか。
 ところで、話がとぶが、左右対称の造形を美しいと感じることがある一方で、反対に非対称のものにどうしようもなく惹きつけられることもある。前者はまさに「自然」なことに思える。対称性に美を感じるのは、なんとなく納得できる。しかし、他方の非対称性の魅力というのは、いったいどこに由来するのだろうか。これは興味深い問題に思う。
 その謎に迫るうえで、人工物と脳の適応機制との関係を考察してみるのも、あながち的外れとも言えないんじゃないか。


 こんなことを深夜の3時半になってぐちぐち考えているのも、肩が痛くて眠れんからなのじゃ。眠りに落ちていく瞬間が、いちばんツライ。薄れつつある意識と交叉するように、痛みの感覚が鋭く立ちあがってくる感じ。寝返り打つのも痛い。
 起きている間は、痛みの感覚を抑える意識も働いているから、まだ平気なのだと思う。その意識が、就寝時には弱くなっていくから、痛みの感覚が相対的に浮き上がってくるのだろうよ。