差別意識の内面化?

 わざわざリンクなんかせんし、ことがらを特定する書き方をするつもりもないけど、近ごろちょくちょく見かけるたぐいの発言で、ちぃとその感覚を疑ってしまうものがある。
 ある者が「この○○野郎!」などと差別的な言葉を投げかけられたので、てめえ何言ってんだコラと怒り、相手にくってかかったとする。
 これに向かって別の第三者がいわく。
「『○○野郎』と言われて頭に来るのは、あなた自身が○○に対する差別意識を内面化してしまっているからではないのか。あなたに○○を見下す意識が全くなければ、『○○野郎』と言われても腹が立つことはないだろう」と。
 アホかと思う。
 これは、「差別意識」なるものを問題視する態度を装いながら、実のところ、差別を受けた者の怒りや告発を封じようとする、きわめて卑劣なロジックである。
 「○○野郎」と言われて怒る者は、たんに「○○」という言葉や観念そのものに対して立腹しているのではないんじゃないのか。「○○野郎」という罵声が発せられるとき、そこにはすでに「○○」を否定的に価値づけるメタ・メッセージが含まれている。その価値づけをしたのは、罵声を受けた者ではなく、罵声を発した者である。そして、罵声を浴びせられた者にとって、その言葉が自分に向けて発せられているのも明らかだ。だからこそ、怒るのではないでしょうか。
 差別にさらされる者は、相手の声音や顔色から、また文脈やその語が使用されてきた経緯から、ことがらを正しく察知する。「○○」という観念とともに、自分が見下され、侮辱されていることを、である。
 「差別意識の内面化」だって? 何を言うか。「意識」などという外から見えぬものとして「内面化」されずとも、差別は自分に向けられて目の前に在るのだ。「見下す意識」は、差別を受けて憤っている側の「内面」ではなく、罵倒を発した側の視線や態度、そして言葉として顕在化しているではないか。「○○」という語に否定的な価値を付与したのは、前者ではない。まぎれもなく後者の側である。ところが、先のロジックでは、このところが転倒して認識されている。
 だいたい「差別意識」とは奇妙な謂いである。それは上に見たように、「行為」としてすでに顕われているものを、行為者から引き離し、行為を被った側の「内面」へと転嫁するヘンチクリンなロジックを構成することすらある。
 問題にすべきなのは、「意識」ではなく「行為」だろう、と思う。「意識」のありようなんて、そもそも問えない。それが「行為」として顕われていることをこそ問題にすべきだろうし、その限りにおいて「意識」など問う必要はまったくないはずだ。顕在する「行為」を見て見ぬふりする者が、おのれの神経の細かさを自慢するつもりか知らぬが、「意識」などと言い出すのである。