というカテゴリを新設してみた

 せっかくブログ(ていうの?)をやっているのに、読んだ本の記録をしないのもどうかとちょっと思ったんで、新たに[読書]というカテゴリを作ってみた。
 自分が読んだ本のリストを公開しちゃうのって、脳ミソ覗かれてるみたいで気恥ずかしい。
 もっと恥ずかしいことは、ほかにある。私の場合、読んだ本を全公開なんて絶対しないんで、選択して公開することになろう。とすると、そうしてブログで生成される読書リストは、「私はウェッブ上でこう見られたい」という自意識の目録になってしまうだろう。うげえ。やる前から尻込みしてしまうわあ。
 もっとも、ここにアップするつもりで本の感想などを書きかけたことは、実は今までに何度もある。けれども、毎度頓挫してしまうのは、書物というのがほんと扱いにくいものだからなのである。私が「ブロガー」というものになりきれぬのは、「断片」の記録ができないからなのだ。
 パソコンの電源を入れてテキストエディタを開き、「さあ文章を書こう」と思ったとき、私は「主題」というやつが決まらないと、1行も書けぬのであります。はてなダイアリを始める前から、そういったたぐいの文章しか書いたことがなかったからであろうと思う。
 ところが、一冊なら一冊の本を読んで脳裡を去来する思考というのは、多系的多方向的なものでありますから、それをひとつの主題でもって統括しようとすると、いきおい大事なものを切り落とさざるをえない。
 のみならず、それを無理やりにまとめてしまおうとするとき、私は自分が一冊の読書経験を「終わったこと」にしてしまおうと意図していることに気づくのである。私は経験というものをここでぶったぎり、片づけてしまおうと欲している。
 この2つ、すなわち、ひとつの「主題」で全体を見通そうという向きと、「完了形」としてものを語ろうとする向き――これらはいずれも「統治者」の論理だ――は、私の持っている文章スキルにおける最大の限界であり制約であるという気がする。そういった限界・制約からおのれを解放するためにも、私はあえて書物について語らねばならぬ。そして、新たな記録の書式を、あみ出さねばならぬ。植民地主義を打倒せねばならぬ。
 なんちって、そんな気負うほどのことぢゃねーか。たかが本の感想だろ。と一方では思うものの、おそらく多くのブロガー諸氏が「自然」にこなしているだろうことが、私にとっては意識的に習得せねばならぬ大事業なのである。大げさな言いぐさですが。
 そういうわけで、時間ができたら、本の話などしてみようかしら、と思っています。すぐに頓挫する可能性は大でありますが。