武田徹『偽満州国論』

偽満州国論 (中公文庫)

偽満州国論 (中公文庫)

 おもしろかったっす。
 よく分かったのは、「国家」を考察するうえで、満州国が非常に興味深い題材になりうるということ。著者は、「満州国」を「ひょっこりひょうたん島」とのアナロジーにおいて眺め、次のように言っている。

 この類似から、きわめて無理な比較ながらも一理を引き出せるのではと僕は思うようになっていた。つまり、こうした類似が発生した理由として、どちらも国家に対するロマンティシズムが比較的素直にかたちになったものだという事情を見るべきではないか――。ひょっこりひょうたん島井上ひさしらが仮構した想像の国だ。「満州国」も関東軍参謀たちが相当部分のシナリオを書き、書き割りのようにつくってしまった人工国家である。どちらも日本人がある程度の広さで共有している「国家」かくあるべしという観念がかたちになっているから似てしまうのではないか。[15頁]


 「国家」を考察しようとするとき、たとえば、明治期における近代国家形成の歴史を丹念に跡づけていくという方法があろう。ただ、その場合、その歴史はおびただしい「失敗」の累積として描かれることになる。さまざまな外的条件のもと、意図は裏切られ、計画はくじかれ、はしごは外される。一定のデザインが示されることはあっても、それが純粋な形で実現されることはなく、しかし諸力の拮抗のなかで企てを裏切りながらも「国家」が立ち上がってしまっているのを、目にすることになる。
 しかし、「満州国」にあっては、相対的に「理想」の純粋性を保ったまま、国家を一から構想しうる条件が与えられていたとも言える。もちろん実際のところは、国家の建設にはいろいろと血なまぐさい事実がつきまとうのであって、それは大日本帝国の軍事力をバックに建設された「満州国」も当然例外ではない。ところがこの人工国家を見る場合、国家を「デザイン」するという行為につきまとうロマンティシズムや理想主義を投影しようとする欲望を断ちがたいのもたしかだと思う。だから、一方で植民地支配にほかならぬ「満州国」建設を、美化しようと試みる言説はあとを絶たない。
 著者はそういった議論に執拗に釘を刺しつつも、「偽満州国」のある側面に既存の国家を超える可能性を見出そうとしているようだ。その意味で、きわどい綱渡りの議論がなされていると言ってよいと思う。
 もっとも、本書は「満州国」建設に関する俯瞰的な見取り図を描くものではなく、むしろ国家についての著者自身の理論的考察に比重が置かれている。その考察の枠組みは、基本的に物象化論的なものと言えるだろうと思う。
 著者は、吉本隆明共同幻想論*1を厳しく批判しつつ、そのオルタナティヴとして物象化論的な国家理解を提示しようとしている。
 著者によると、吉本にも、『共同幻想論』に先行する『マチウ書試論』等のテクストにおいては、成員どうしの水平的相互的関係として国家をみる思考が存在していたという。たとえば、成員Aによる成員Bに対する侵犯を、罰し調停するものとして、吉本は原始的な法を考えている。そういった本来的に水平的であるはずの法が、いわば物象化されて現われるとき、成員Bにたいする成員Aの侵犯は、「権力自体にたいするAの侵犯行為」という垂直的関係として錯視されてしまう。このような、かつて吉本にも内在していた水平的関係に思考の基盤を置く発想が、『共同幻想論』では消え、垂直的な思考にとってかわられてしまっている、というのが著者の批判[161-2頁]。
 水平的関係と垂直的関係という二項対立を、著者は「都市型共同体」と「国家型共同体」という概念で論じている。そして、都市の多様性や越境性が積極的に称揚され、それを観念と現実の両面において囲い込んでいく国家型共同体に批判的なまなざしが向けられる。
 1995年という時代に書かれた本書は、都市の可能性に楽観的である。しかし、文庫版のあとがき――1995年の著者と2005年の著者が対談するという趣向――での著者は、この本が書かれてからの10年という時間の経過に、とまどいを表明している。

……だけど、今、この本を読み返してみて、逆にこの時にはあったんだけどなくしたものもあると思ったよ。何なのか、ずっと考えていたんだけど、それは都市の、都市生活のリアリティかもしれない。都市共同体という言葉を使っていた時には、都市の肌触りのようなものが確かに意識されていて、自分にとってこうあって欲しい都市、住んでみたい都市のイメージが漠然とでもあって、それを求めて書いていたところがある。誤解を招きそうな言い方だけど、書いている立ち位置が周囲の生活により近かった。あるいは視野の中に生活が入っていた。


 「昔は○○だった」という言い方は避けたいところだけど、かつてあった都市的なるものが、この10年間で根こそぎやられてしまったという感覚は、私にもあるなあ。著者は、地下鉄サリン事件阪神大震災の95年からこっちを、「信頼性崩壊の時代」と位置づけている[282頁]。たしかに今日、「不審者」「変質者」を捕捉しようとする視線はいたるところに見られ、いかがわしいものが紛れ込める都市的な空間はどんどん狭まっている気がする。この10年をどう把握するのか、という悩ましい問題を考えるうえでも、95年に世に出た本書は示唆に富んでいるんじゃないかなあ。


 あと、トリビアとしておもしろかったところ。
 よくマンガなどで戯画化された中国人が「ワタシ○○アル」などとしゃべらされているが、その起源は満州国の「協和語」にあるとのこと。「協和語」とは、かの地において、日本人が外国人向けに普及をはかった簡約日本語のこと。日本語をベースにしながら、中国語をチャンポンし、習得のめんどうな助詞を省く、というふうに日本語教育の効率向上のために考案された人工言語である。
 本書によると、実際にこれは普及しかけたものの、日本語に精神性を求める論者(言霊思想!)からの強硬な反対などもあって、頓挫している。


 それから、シオニズムに共感し、「満州国」への大量のユダヤ人移民受け入れを構想していた安江仙弘という軍人の存在*2
 かつて「満州国」に住み、安江を敬愛していた人物に、ミハエル・コーガンというユダヤ系ロシア人がいる。コーガンは戦後日本に渡り、タイトーを創業し、スペースインベーダーを大ヒットさせるなど、電子産業の先駆者のひとりとなる。こういった人脈の連なりから様々に想像力を刺激されるのも、本書のおもしろさ。


 もういいかげん長くなったので、とりあえずここらでやめますわ。1冊の書物について書くのは、難しい。まだまだ書き足りない。最近読んだ5冊ぶんぐらいの感想などを、まとめてちょちょいと書くつもりだったのに。


 ところで、「満州国」って、「アメリカ合州国→米国」「中華人民共和国→中国」「大韓民国→韓国」式の略記に適さないもんで、ちょっと厄介ですね。どうでもいいことだけど。満州国政府。

*1:ところで、吉本に言及されるのも、おもしろいことに、この「満州国」をめぐる著書において、ゆえなきことではない。満州事変の首謀者である石原莞爾の思想的バックボーンは、田中智学。吉本は、宮沢賢治研究に没頭した時期があるわけだが、賢治も石原同様、田中智学に心酔している。賢治を経由して吉本にも智学の国家観が流れ込んでいるのではないか、というのが著者の仮説。[162頁]

*2:そう言えば、この奇怪な人物は、大塚英志の小説『木島日記』にも登場させられていた。大塚はこの『偽満州国』をネタ本にしたのかな。