I am an anarchist!

 以下は、昨日とりあげた武田氏の本や、そこで言及されていた吉本隆明の話の延長上で考えたこと。法・ルールといったものについて、信号機と警官を比喩にして考えてみたい。
 「不審者」による犯罪が世間で喧伝されているから(原因)か、あるいは「不審者」なるものの存在を喧伝するため(目的)か、私の住んでいる町でも、近ごろ防犯ボランティアを見かける。とくに朝の登校時間などは、交差点などに、ボランティアの連中が警官どもと一緒になって旗持って立っているのである。
 彼らが何をやっているのかというと、要するに睨みをきかすということである。しかし、ただ睨みをきかしているだけでは街のチンピラと変わりがない。彼らはどうも「不審者」から小学生どもを警護しているらしい。そういうわけで、彼らはチンピラではなく正義の味方なのである。
 もっとも、「不審者」とか「防犯」とかの問題は、今日の本題ではない。信号機と警官という存在について、考えてみたいのである。
 警官とボランティアを含む、わが町の正義の味方たちは、小学生の警護と同時に「交通整理」もやって下さっている。信号機の下で、旗を持って歩行者を誘導するのである。
 しかし、この光景に私は違和感をおぼえてしまうのだ。先に私は「交通整理」と書いたが、信号機があって、それが故障せずにちゃんと機能しているかぎり、「交通整理」は不要なのである。したがって、彼らの職務を「交通整理」と呼ぶのは適切でなかろう。彼らは信号が切り替わるのに忠実に腕を上げ下げしているだけなのであって、「交通整理」の職務は彼らではなく信号機によって充分遂行されているのである。
 では、信号が赤になったり青になったりするのに合わせて、旗を上下して歩行者を誘導する彼らは、いったい何者なのだろうか。彼らの仕事に、どんな意味があるのだろうか。
 私が小学生だったころ、通学路には、自動車の通行量はそこそこあるのに信号機が設置されていない横断歩道が、いくつかあった。そういった場所に、毎朝PTAのおばさんやおじさんが持ち回りで立って、車が来ないのを確認して児童を渡らせる、という仕事をやってくれていた。
 彼女たちの仕事の意味は、よく分かるのである。また、パチンコ屋の駐車場やガソリンスタンドで、従業員がやはり旗や棒を持って車の誘導を行なっている意味もよくわかる。彼らはいわば仲裁者であり、調整者であり、すなわち法でありルールなのだ。
 彼らのそうした機能を機械化したのが、信号機である。あらゆる交差点や横断歩道に警備員や警官を立たせるわけにはいかないから、信号機が仲裁者・調整者の役割を代替するのである。
 ところが、この代替にすぎないはずの信号機は、それが機械であることによって、本来の役割を逸脱した性格を持ちはじめる。歩行者の側からすれば、見通しのよい交差点で車が来ないことを確認できれば、信号が赤だろうが横断してかまわないのは当然である。にもかかわらず、これは「道路交通法違反」とされてしまうのである。おかしいではないか。だって車が来ないことは分かりきっているんだぜ。なぜ信号が青に変わるまで待たなければならんのだ。ここで信号機に従うこと自体が大事になってしまっているのだ。
 そういうわけで、私は――こんなこと無頼自慢にもなりはせぬが――自動車が来ないならば、信号が赤だろうが構わず横断することにしている。
 さらに、腹立たしいのは、信号機の下で警官がしばしば監視していることである。私は、警官がいるからといって、車がないのに信号機の指示に従うなど、とうてい納得できない。だから、警官の見ている前でも、なるべく信号無視横断を敢行することにしている。たいていの場合、警官は見て見ぬふりをしてくれるものだが、たまに「信号が赤ですよ」などと、わざわざ注意してくる警官がいる。「うるせえなあポリ公」とはさすがに言えないので、彼に向かって「あ、分かってますよ」とだけ答える。
 こんなことにこだわる私は、偏屈でアタマノオカシイやつと思われるかもしれないし、それを自慢げに書くなど、真性のバカなやつだと判断されるやもしれない。しかし、ここは譲れないところである。
 警官が監視していようといまいと、自分で確実に安全を確認しているのに信号機の色が変わるのを待つ、という行為はまったく合理的でない。そこにもし私が違和を感じないのだとすれば、私は信号という機械や警官に服従すること自体に価値を置いていることになる。これは、本来的な法・ルールや権威といったものとは別の何かに飼い慣らされていることにほかならない。
 私は、法やルールを、また権威を一切認めないものではない。それが自分の安全や利益を確保し、また他者との衝突を調整する働きをもつ限りにおいて、私はそれらを尊重し、それらに従う。私たちは、ややもすると信号機や警官そのものが法であり、権威であるという錯覚に陥ってしまいがちである。しかし、信号機・警官は、本来的な法や権威に対する二次的な代替・代行にすぎないのである。かつて信号機が未設置の横断歩道で登下校の児童を誘導していたPTAのボランティアや、駐車場などで往来する車の誘導・調整を行なっている警備員*1こそ、本来的な法や権威の姿である。

*1:それらを警官が担っても構わないのだが。