転向者の君が代

 先日のボクシングの試合における、T-BOLAN の人による国歌独唱が「変だ」という噂を聞きつけ、動画で観てみたのだけど。


http://www.youtube.com/watch?v=odlsbUQoQSM


 たしかに変だ。しかし、何が「変」なのか。
「変だ」と言えるためには、「君が代かく歌うべし」という模範がなければならないと思うのだけど、そんなものあるんだろうか。
 くだんのタイトルマッチの前に君が代を歌った森友嵐士という人は、Wikipedia によると、1965年生まれ。ということは、おそらく君が代なんか歌った経験はほとんどないはず。
 国旗国歌法が成立したのは 1999年。この法律の制定については、左翼のフリをしているけれど実際は右翼政党である日本共産党*1が提案し(彼らの提案は、「国民的議論」によって新しい君が代・日の丸ではない国旗国歌を制定しようというものだったが)、それに小渕内閣が「おお、共産党も話が分かるじゃねえか」と乗った、という経緯であった。自共合作。
 以降、学校の入学式・卒業式にて、君が代斉唱が強制されていくという流れだから、スポーツの国際試合のたびに君が代独唱に馳せ参ずる歌手たちのほとんどは、学校で君が代を歌った経験はないはず。ということは、君が代なんて歌う機会は今までなかったというのとほぼ同義だ。
 私にとっても、君が代というのは、どの学年の音楽の教科書にも、なぜか最後のページに譜面が載っている、なんかよくわからん歌、というものであった。さいわいにも、私は君が代を一度も歌わされたことがなかった。聴く機会といったって、大相撲の表彰式ぐらいのもの。オリンピックで日本選手が優勝したときに流れるのは楽器演奏のみなので、歌もあわせて聴くのは相撲の千秋楽に限られていた。君が代は「大相撲の歌」にすぎなかったのである。
 で、東京都などで君が代を拒否する教師たちが処分されているのもひどい話だが、もうひとつ気になるのは、近ごろ大きなスポーツ・イベントがあるたびに、ポップ・シンガーが呼ばれ、君が代を独唱するのが定番化しつつあるようだ、ということ。歌手にとって、たくさんの人が集まりテレビ中継されるスポーツ・イベントは、かっこうの宣伝チャンスなのかもしれないが、それにしても節操がなさすぎるんじゃないかと思う。
 お呼びがかかってヘイコラ応じる歌手たちに訊いてみたいのは、「あなたにとって君が代ってなんなのよ?」ということである。「戦後」下の学校教育を受けた者にとって、君が代なんてものは、自分となんの関係もない、ありがたくもない念仏みたいなものではなかったのか。かつて君が代が「われわれ国民」を結びつける崇高な「国歌」だなんて思ったことが、いっぺんでもあったのか。
 筋金入りの右翼がそれを歌うのは、理解できる。戦後の「偏向教育」において否定、というか無視されてきた君が代復権させるべきだという考え方に共感はしないが、国旗国歌法以前からそれを歌ってきた者が今も歌うというのは、姿勢として一貫してはいる。だから、昔から「憂国」の人だった松山千春あたりがこれを歌うのは、必ずしも「変」には見えない。
 しかし、最近になって突如「国歌」としての君が代を歌い出した、一定の年齢以上の*2歌手諸氏は、平気なんだろうか。国会議員と役人たちがなんのつじつま合わせか勝手に取り決めた「国歌」を、それまで自分にとって何ら縁もゆかりもなかったであろう歌を、「ハイ、これが私たち日本国民のの国歌でございます」とばかりに歌うことに、何の違和もおぼえないのだろうか。以前は、アンタだってたんなる辛気くさいつまらない歌と思っていたんじゃないのか。少なくとも、関心などなかったろうに。
 呼ばれてホイホイ出かけて行って君が代を独唱する姿は、私にはかぎりなく卑しくあさましく見える。歌詞の内容が卑屈なお追従ソングということもあるが、それ以上に私はその歌手に対して「数年前までアンタ君が代なんぞ屁とも思ってなかっただろ?」という疑念をぬぐえないからだ。歌声からその歌い手の内心を透かし見ることはできないが、歌手というのは気持ちを入れずに歌を歌えないものだろうと思う。先の森友嵐士も、たんなる営業上の打算で歌っているならまだよいが、「心を込めて」歌っているのかもしれない。だとしたら、それは一種の「転向」ではないのか。
 いや、まあ、大げさな物言いだというのは自覚している。たしかに、ナショナリストになるのも個人の勝手ではある。しかし、談合みたいにして、なし崩し的に急遽決められた「国歌」を、ナショナリストは平気で「心を込めて」歌えるものなのか? お上が突然「通達」の紙切れを出すみたいにして突きつけてきた歌――くり返すが、それはちょっと前まで、たんなる「そういえば、音楽の教科書の最終頁に載ってたな」という程度の歌でしかなかったものだろう――を、「国歌」として歌えるものなのか?
 原則的に私は、共産党のように「国民的議論」を経て決定された「国歌」なら認めてよい、という考えではない。「国歌」なんぞという馬鹿らしいものはない方がよい(ついでに言えば、「校歌」も「社歌」も)という立場だ。しかし、君が代が国歌としての法的地位を得る過程には、明瞭な「国民的議論」も合意形成のプロセスも存在しなかった。私が時代について行けていないだけかもしれないが、数年前までは、君が代こそが時代遅れの陰気な歌として認知されていたはずではないか。
 にもかかわらず、その、お上の通達以上の根拠をもたないひとつの歌が、いつの間にか「国歌」としての権威をまとい、なんとなく「君が代=国歌」というコンセンサスが既成事実化しつつあるのは、大変に気持ち悪いのである。なんで気ぃ入れて歌えるんだよ。なんのマネだよ、その神妙なツラは。まさか本気なのかよ、オイ。
 唯一の救いは、君が代っていう歌は、真剣な顔して歌えば歌うほど当人がマヌケに見える、ということである。ご機嫌とりのゴマスリ・ソングにすぎぬものに、感情移入するさもしい絵。しかも、そのゴマスリ相手の明仁氏が、昨今の官僚たちや右派議員たちによる君が代の扱いをこころよく思っていないのは明らか。官僚制の官僚制による官僚制のための「国歌」。とすると、君が代歌いに馳せ参じてくる歌手たちは、誰にゴマをすっているのやら。もう、これはゴマスリの癖がすっかり身について、しじゅうもみ手を続けやめることのできない、という何ともみっともない姿にほかならない。儀礼としての熱唱。熱唱としての儀礼。馬鹿みたい。
 なんて言っていられるのは、今のうちだけかもしれない。そのうち、多くの人がロボットみたいに「心を込めて」君が代を歌い、君が代の斉唱に「心を動かされる」ようになるのかもしれない。というか、すでにそうなりつつあるのか。いやだいやだ。

*1:彼らの言う「自主独立」とか「民族自決」なんていうスローガンは、自民党タカ派の主張と相似的に見えるし、共産党は「北方領土返還」を強硬に主張してもいる。現島民や旧島民の利益よりも、彼らにとっては「国民」なるものの方が大事らしい。

*2:というのは、君が代が「国歌」でなかった時代を知っている世代ということ。