読書感想文くそくらえ

 この時期になると、「読書感想文+パクリ+著作権フリー」といったキーワードで検索していらっしゃる方がけっこういる。それは、ここで以前、著作権フリーの「読書感想文」を無料提供しているサイトにリンクしたことがあったからだ。
 夏休みも終わりになって、そういうサイトにアクセスする生徒諸君が大勢いるんだろうけど、私が異常だと思うのはそのことではない。おかしいのは、「読書感想文」を宿題に課す学校である。「読書感想文」というものには「手本」がない。にもかかわらず、そんなものが何十年も変わらず、日本の学校で宿題として課され続けているというのは奇怪である。
 「読書感想文」などというジャンルの文章は、小・中・高等学校以外の場所で書かれることも読まれることも、まずない。中高生の方がもしここを読まれることがあったらぜひ知っておくとよいと思うのは、大学でそんなバカげたものが課されることはない、ということである。出版される書物としても、文学評論、あるいは作品や作家に関する研究はあっても、「読書感想文」などない。だから、「読書感想文」には、「このように書くことができる」という「手本」はない。
 「手本」もないのに、どう書けというのだ。生徒たちが困惑するのも、もっともなのである。
 とすると、問題は学校の教師は、どういう意図で「読書感想文」などというけったいなものを、あいも変わらず児童・生徒に押しつけようとしているのか、ということである。
 「読書感想文」のうち、「読書」の部分についての教師の意図はわかりやすい。この場合の「読書」とは、マンガを読むことでもないし、時刻表を読むことでもない。評論を読むことでも、すこし背伸びして学術書を読むことでもない。もちろん、「読書」だから映画や音楽や芝居の「感想」を書くわけにもいかない。
 学校業界では、「読書」とは、なぜか「小説を読むこと」を意味する。ここから少なくともわかるのは、「読書感想文」を書かせる教師は、どういう理由でかは知らないが、「小説」というものを特別に「よいもの」、児童生徒に「読ませるべきもの」と考えているらしい、ということである。だから、彼らは「小説」を読ませたい。しかし、児童生徒が「読んだ」という《証拠》が必要だから、「読書感想文」を提出させる。ここまでは、わかる。気に入らないけど、理解はできる。
 では、「読書感想文」の「感想」とはいったい何だろうか。
 私は、このブログで、自分の好きなロックンロールなどについて、毎度長々と語っているのだけど、「感想文」と言えるものを書いたことはほとんどない。文章のなかに一部「感想」も含めて書くことはできるけれど、「感想文」としては書けないのである。
 本でも芝居でも音楽でもよいのだが、それを読んだり観たり聴いたりして、「感じたこと」を書けば、それは「感想」になるのだろう。「感じたこと」とは「おもしろかった」とか「おもしろくなかった」といったことである。その「おもしろかった」あるいは「おもしろくなかった」を、それ以上の言葉にするのは、並大抵のことではないように思う。
 私は体験的に思うのだけど、「おもしろかった」本ほど、そう感じた理由は言葉にしにくいのである。小説でも音楽でも、自分にとって大事なものであったり、気になるものであったりするものは、たいてい「わけがわからない」。「わけがわからない」ものについて書こうとするなら、それが「わけのわかる」ものになるよう、たどたどしい言葉ながらも《考察》し、《論じる》よりほかない。しかし、それは「感想」ではない。
 「感想」が言いたければ、映画のテレビ・コマーシャルでよくサクラの観客たちが言わされているように、「涙がとまりませんでした」とかわめいていればよいのだ。だが、それはわざわざ原稿用紙に書くことか?
 ある作品に打ちのめされて、「わけのわからなさ」のなかで、それをどう言葉にしたらよいか困惑している。または、困惑しないまでも、「わけのわからなさ」に出会いひたることは、それまでの「自分」から解放されることでもある。そこに教師たちはまとわりついて、「どう思った?」「何を感じた?」「感想は?」と質問してくる。「読書感想文」とは、そういうものだ。うるせえなあ。あっちに行け。一人にしてくれ。そう思うのが当たり前でないだろうか。だから、私は「読書感想文」が大嫌いだった。
 ところで、おせっかいな先生たちは、なぜ児童生徒に「感想」を書かせたいと思うのだろうか。「感想」の何に関心をいだいているのだろうか。
 斎藤美奈子さんは、宮川俊彦著『これできみも読書感想文の名人だ』なる指南本への書評(?)で、つぎのように書いている。たぶん、これが正しい解答なんだと私も思う。

たとえば、この本[宮川の著書]にはこう書いてある。
〈感想文の正しい書き方なんてないんだ!〉〈なにを書いてもいいんだ。なにを思ってもいいんだ。本を読んで、思ったことを書く。ただそれだけのこと〉
 これはうそだから信じちゃだめー。「なにを書いてもいい」なら、こんなおたすけ本が出てるわけないじゃんか。でしょ? おとなはときどきこういううそ(おとなの世界では「たてまえ」というんだ)をつくから気をつけよう。
 さて、この本には、感想文を書くためのいろんな「作戦」が出てくるよ。

  • もしも作戦……もしぼくが主人公だったら、と想像したことを書く。
  • 体験作戦……きみの体験と重ねて書く。ぼくもよく似た体験があります、それは、とか。
  • 出会い作戦……本との出会いのいきさつ(出会ったわけ)を書く。
  • きっと作戦……書かれていないことを想像して書く。主人公はこう考えていたと思う、とか。
  • できごと作戦……さいきんの事件やできごとと重ねあわせて書く。

 どういう意味かわかるかな。そうなんだ。おとなが子どもの感想文に求めているのは「本の感想」じゃないんだね。どっちかというと、本について書くふりをしながら「自分のこと」を書いてほしいんだよ。いちばんよろこばれるのは「この本を読んだおかげで、ぼくはこんなに変わりました」っていうやつだ。本くらいで自分が変わるなんてこと、ほんとうはめったいない。でも、かまやしない。じょうずに「本を読んで変わったふり」をしよう。


斎藤美奈子『誤読日記』ISBN:4022500328


 これがわかってれば、「感想文」に苦労することもなかったのにな、と思う。