David Bowie / Heroes

 誰もレコードなんか、真剣に聴かぬのである。私もそうだけど。
「ながら鑑賞」では、まともに音に没入できない。食器洗いながら、本を読みながら、自動車を運転しながら……。あるいはヘッドフォンをつけて、歩きながら、電車で移動しながら……。録音された音楽は散漫な意識で消費されているのである。
 もっとも、咳払いすらはばかられる静寂なコンサートホールで身をちぢめてオーケストラの演奏を拝聴したり、スピーカーの前にうやうやしく腰掛けて音楽に没頭したりしようという態度だって、17世紀か18世紀か19世紀か知らないけど、西欧に起源をもつ歴史的なものにすぎないのであろう。目をつぶったり、静かに座って身体を落ち着かせたりすることで、聴覚以外の感覚を眠らせる。耳に神経を集中させて、音のみを純粋に切り出してきたものとしての「音楽」を「作品」として「鑑賞」する。これはけっして普遍的で超歴史的な体験などではない。
 それにしても、ミュージシャンは「作品」として演奏し、録音し、発表するのであって、その「作品」が散漫に消費されていることに、不満をもったりする人はいないのかしら。なんてことを、デビッド・ボウイの "Heroes" を聴きながら考えた。
 ボウイのシングル・コレクションを通しで聴いていると、この曲を含め、1977年から 80年あたりの彼の作品からは、作り手の悪意というか皮肉のようなものを想像してしまうのである。というのは、これらの楽曲群からは、聴き手の散漫な聴体験を先回りして、それを何と曲のなかに構成してしまっているような風情を感じる、ということである。「君たちがそぞろな気持ちでいつも聴いているのは、こんな音なんだろ?」とでも言うかのように。
 私は、今のところボウイの熱心な聴き手ではないのだけど、この "Heroes" は、恐るべき曲だと思う。この演奏には、注意力が散ったときに私たちが聴くことのできる、「ざわめき」が閉じこめられている。
 「ざわめき」とは、関心を向けるべきものへの関心を断絶したときに突如意識に浮上してくる音である。私がこの「ざわめき」というものの愉楽を知ったのは、小学生の低学年の時分であったと思う。
 教室で先生の話から注意をそらす。すると、コツコツと鉛筆がノートを叩く音や、校庭から聞こえてくるガヤガヤという話し声や叫び声が、スーッと意識の前景にのぼってくる。親の説教を馬耳東風で聞き流す。すると、近所の家の話声やたどたどしいピアノの音が、浮き上がってくる。これが、思いのほか心地よいのである。『ドラえもん』で、ママの説教は「ガミガミガミガミ、ガミガミガミガミ」と擬音化されるけれど、私はそれを読んで、きっとのび太くんは、あの「ざわめき」を知っているにちがいない、と共感を寄せたものである。
 今でも、行きたくもない飲み会につきあわされたときなど、私はひとり会話から断線して「ざわめき」に耳を傾ける。このように、向けるべき関心の断線が、「ざわめき」を見いださせる。
 柄谷行人がたしか『日本近代文学の起源』で、内的な人間、すなわち他者に無関心な者が「風景」を見いだす、というようなことを書いていたと思う。私にはそのくだりが、自分のこととして感覚的に理解できた。私がときおり自分を守るために呼び出す、あの「ざわめき」が彼の言う「風景」なのだと。
 ボウイが曲のなかに閉じこめているのも、この種の「ざわめき」ではないかと思う。
 私には、この曲が、聴く者の曲への集中をくじくよう、仕掛けられているように思われる。たしかに、ボウイのボーカルは説得的に語りかける。しかし、ギターのノイズが、ボウイの声と言葉を妨害するように、絶え間なく鳴っている。
 そして、歌に対してあまりによそよそしい伴奏。それは、「伴奏」と呼ぶのもためらわれるほど、よそよそしい。ギターのリフは、ボウイがささやくときも叫ぶときも、同じ調子で平坦に白々しく奏でられる。
 リズム隊もよそよそしく白々しい。ささやくように歌い出されるボーカルは、2番3番と進むにつれて、絞り出されるように叫ばれる。こうして歌は盛り上がっていくはずが、ベース、リズムギター、ドラムスは、鈍く重いドタバタしたリズムで応じる。歌い手とリズム隊のあいだは、なにか目に見えない膜のようなもので隔てられているかのようだ。
 ベースとリズムギターによるコード・チェンジは、階段を昇るように、無駄にもったいぶって1段ずつ上げていってみせたりするのだが、これがいかにも不自然で、曲の「継ぎ目」を露出させてしまう。ドラムがときおり入れるフィルインも、とってつけたようで安っぽい。ドッタカタッタ。
 こうした場末の洗練されていないバンドを模したようなドタドタとした「伴奏」によって、ステージでひとり情熱的に魅惑的に叫ぶボウイは、ひどく場違いな印象を与えてしまう。徐々に高まっていくボウイの歌声は、聴く者を酔わせる力をもっているはずだが、三文バンド風に演奏されたギター・ベース・ドラムが、要所要所の雰囲気を損なっていくのである。この曲をボーカルに集中して聴くのは難しい。私たちの注意はそらされる。
 このことによって、何本かのギターによって過剰に入れられたノイズ、たえまなく鳴る騒がしいノイズが、「風景」として浮き上がってくる。それは、自分を守ってくれる「ざわめき」として、私を取り囲み、閉じこめる。私はまるで、外界からシャットアウトされ、自分の「内面」で鳴っている音だけを聴いているかのような気になる。
 これが、はたして「聴く」あるいは「聞く」と呼ぶに値することなのだろうか。