ジョン・アーヴィング『未亡人の一年』


未亡人の一年〈上〉 (新潮文庫)

未亡人の一年〈上〉 (新潮文庫)

未亡人の一年〈下〉 (新潮文庫)

未亡人の一年〈下〉 (新潮文庫)


 すばらしい! 最高! アーヴィングの小説はどれもすばらしいけれど、これは特によかった。
 この作品は今回が初読だったが、彼の他の作品のいくつかと同様、私にとって今後おりにふれ何べんも読み返す小説になると思う。
 まず、作品についての私なりのつまらない紹介をしておけば、『未亡人の一年』は、「想像する」という営みを徹底して肯定しようとする物語と言えると思う。
 ある秋の日、マリアンは、夫と4歳の娘を、そして彼女の若い愛人を残して失踪する。物語は、マリアンの不在を軸にして、2人の主人公――当時16歳の愛人エディと娘のルース――のその後40年近い歳月を追いかける。
 のちに小説家として成功をおさめる娘のルースの成長において、マリアンが持ち去った、自動車事故で死んだ兄2人の写真の不在が大きな意味を持つ。

 両親が三人目の息子を期待していたところに生まれたからルース・コールは作家になった、というわけではなかった。むしろその想像力の源は、母親や父親よりも死んだ兄たちの写真が持つ「存在感」のほうがはるかに大きい家で育ったこと――母親が彼女と父親を捨てた(死んだ息子の写真はほとんどすべて持っていった)あと、なぜ父親は額を掛けるフックをなにもない壁にそのままにしておくのだろうと思ったことにあった。フックは彼女が作家になった理由の一つだった。母親が去ってから何年も、どの写真がどのフックに掛かっていたをルースは思い出そうとしつづけた。そして、死んだ兄たちの本当の写真を満足に思い出せなかったルースは、彼女が知ることのなかった二人の短い人生の、写真に捉えられた瞬間すべてをでっちあげはじめた*1


 成長して小説家になった彼女は、「作家の体験」を自身の作品と結びつけようとする批評家たちに対し、かたくなに反発する。自分が物語で描く人物は、作家自身や特定の実在の人物の反映ではなく、「想像力」によって生み出したものなのだ、と。
 もうひとりの主人公、一夏のあいだマリアンの愛人だったエディ少年もまた、成人して小説家になる。彼も「マリアンなしの人生について考えることで、エディ・オヘアは書くという権威を手に入れた」*2。エディは、母を失う4歳のルースを必死にいたわろうとする過程で、作家として「自分の声」を獲得する。この啓示のおりる場面は、読者の感情をはげしく揺さぶらずにはおかない。
 エディは、自分の前から姿を消したマリアンをその後も愚直なほど愛しつづけ、20歳以上も年上の女性を愛する男を主人公とした奇妙な作品をくり返し発表しつづける。50歳を過ぎてもなお、そんなものばかり書き続けているのだから、しまいには相手の女性は70代後半になるわけで、そういう相手とのセックスが「ふつうならその気が失せてしまう山ほどの医学的な気づかい」*3を要するすさまじいものになるのである*4
 ただし、エディは、ルースと対照的に、作家としての成功を手に入れることはかなわず、三文小説家にとどまらざるをえない。それは、彼がマリアンを「思い出す」ことに捕われ続け、「想像力」によって世界を作り出すことを充分になしえないからだ。ちなみに、彼のもとを去ったマリアンも、移住先で作家となるが(この小説は作家だらけなのだ)、家から持ち去った死んだ息子たちの写真と思い出に捕われ続ける。
 写真を持っていったマリアンと、それが掛かっていたフックのみを残されたルース。さらに、もう一人の作家が描かれる。ルースの父でマリアンの元夫である、絵本作家のテッド・コールである。彼は、ファンの女性たちを片っ端から愛人にしては、スケッチやポラロイドにおさめるという性癖を持っている。この「記録」に執着する絵本作家は、想像力によって埋めるしかないような「欠落」を持たない、あるいは想像力以外のものによって「欠落」を埋めてしまう人物として、位置づけられているように思う。
 その意味で、ルースたち3人の作家と、テッドは対照的に描かれている。そして、テッド以外の3人については、相対的に「想像力」による創作の資質に富んだルースと、過去を強迫的に「思い出す」ことをその作品内でもせざるをえないエディやマリアンが対照されている、と言ってよいと思う。
 私には、本作品が、後者、とりわけエディのための物語に思える。というのも、エディは自身が歳を重ねるのに合わせ、やはり同時に歳を重ねているはずのマリアンを自分の小説のなかで描き続けるからである。エディが16歳で出会ったマリアンが当時39歳だったということは、50歳をこえたエディにとってのマリアンは70代後半でなければならない。だから、彼はそのように描く。
 彼にとってかつての恋人は、永遠に歳をとらない過ぎし日の「思い出」ではない。エディは、彼が知ることのできない彼女のその後を「想像」しようとしている。エディ・オヘアがその作品のなかで描く、70代女性とのロマンスやセックスがいかにグロテスクにみえようとも、読者はエディを「キモイ」と言って嫌うことはできないのである。エディ・オヘアは、読者にとっても、ルースをはじめとする作中人物にとっても、これ以上ないほど愛すべきヒーローなのだ。

「ぼくはその女性のすべてを見ようとする」エディはハナに言った。「もちろん、その女性が年をとってるのはわかってる。でも彼女の写真がある――写真がなくても、彼女の人生を写真のように想像することはできる。彼女の人生ぜんぶをね。ぼくよりずっと若いころの彼女を想像できる――身振りとか表情のなかに、深く染みこんだ、年齢を超えたものがあるんだ。年とった女性は自分のことをおばあさんだとは思っていない。僕もそうは思わない。ぼくは彼女のなかに、彼女の人生すべてを見ようとする。一人の人の人生全体には、すごく感動的なものがあるんだ」
 彼はそこでやめた。気恥ずかしくなったからだけでなく、ハナが泣いていたからだった。「誰もそんなふうにわたしのこと、見てくれないわ」ハナは言った*5


 ハナもまた、作品内でルースの父テッドと同様の位置づけをされた人物である。彼女も、想像力以外のものによって自身の欠落を埋め続けるしかない、悲劇の人物として描かれていると言ってよいと思う。
 さて、マリアンはエディがそうであるように、失ったものを「想像力」によって埋めようともがく人物として描かれている。彼女は、行方不明者の捜索にあたる捜査官を主人公に置いた物語を書き続ける。捜査官は捜索において、ゆくえを絶った少年たちの老いた親たちがそうするように、残されたあどけない写真から、現在の姿を「想像」しようとするのである。10年後、20年後の成長し、あるいは老けつつある現在の姿を。
 このマリアン、そしてエディを通して見ると、なぜジョン・アーヴィングという作家が、人物の半生や一生をたんねんに追いかけた長編作品を書き続けるのか、その一端を理解できるような気がする。
 私は近ごろ強く思うのだけど、文字で何かを書くというのは――文字でなくてもよいのだが、ものを語るというのは――「いま・ここ」にいない誰かに向けて語るということで、そのことから逃れられることはけっしてないだろうと思うのである。いわば、それは「死者」に語るということである。語る相手は、比喩としての「死者」の場合もあれば、文字通りの意味で死者である場合もあるだろう。いずれにしても、「いま・ここ」にいる相手に向けて何かが書かれることはないし、むしろそのことにこそ「書く」という行為の意味があるのではないだろうか。ネットの時代に、しかも自分自身ネットを使ってアホウな文章を書いている身として、こんなことを言うのは古風にすぎるかもしれないんだけど。
 絶対的に不可知な他者を、想像力によってフィクションとしての「いま・ここ」に呼び寄せようとすること。「生者」には依然として時間が流れ続けるのだから、そのままでは、止まった時間に閉じこめられた「死者」に何かを語ることはできない。そこで、「生者」はみずからを「思い出」という停止した時間に閉じこめて生きたまま*6「死者」になるか、反対に想像力によって「死者」を「生者」が生きる時間のなかに回復してやるか、どちらかしかない。もし後者を、すなわち生きることを肯定しようとするなら、「想像力」を用いるほかないだろう。
 もちろん、「想像力」によって「死者」は、現実にはかえってこない。けれども、フィクションにおいては、それが可能かもしれない。
 その点において、このすばらしい作品が実際のところ「成功」しているのかどうか、私にはまだ判断できない。そもそも、「成功」などということがありうるのかどうかすら、わからない。しかし、すくなくとも、その困難な「想像する」といういとなみを、エディ・オヘアという人物を描くことを通して肯定しきっている点は、この作品の尊さと言えるのではないかと思う。




 ところで、アーヴィングの作品を読んでいつも感嘆するのは、ひとつにはそのユーモアである。彼の小説には、随所に笑いがある。そして、それはけっして上品なジョークではないものも多く、一見「悪趣味な悪のり」とみえるものが少なくないのだけれど、不快にさせられることがまずない。たとえば、『ガープの世界』で描かれる、車内でフェラチオ中に誤って車を発進させてしまい、衝突して男のイチモツの先端が吹っ飛ぶシーンなんて、たしかにギョッとはするが、不思議なことに心地の良いユーモアがあるのだ。
 また愚かしい人物の愚かしい行為が山ほど描かれるのに、そこで生じる笑いが嘲笑的なトーンをおびることは、絶対にない。
 本作品において、アーヴィングは、作家のルースにこう考察させている。

 いかがわしいこと、下劣なこと、性的なこと、異常なことについて書かれた文章は、どうしていつもおかしなほど見下した調子なんだろう(面白がるのは、無関心同様、優越感の表われだ)。下品なことを面白がったり無関心でいたりするのは、どちらもたいていは嘘だと思う。人は下品なことに惹きつけられるか、反感を持つか、あるいはその両方だ。なのに、人は下品なことを面白がるふり、あるいは無関心なふりをして見下そうとする*7


 そう。「面白がる」という態度には、しばしば「見下した調子」がともなうものだ。ところが、アーヴィングのユーモアにはその「見下した調子」がいっさい見えないのに、奇妙なおかしみがつねに流れている。
 それは、語り手と語られる対象との距離の絶妙な操作から生じているものだと思われるのだが、毎度「なぜこういう語り方が可能なのだろうか」と考えさせられる。こんな文章を書きたいものだと思うけど、それにほど遠いものしか書けていない。



 もうひとつ、いつも感嘆するのは、構成の無駄のなさ。「つけ加えるべきことも、削るべきこともまったくありえない」と言えそうな、「しかるべきところにしかるべき文がおさまっている」という構成である。すべての「細部」がきっちり「全体」に響いているとでも言ったらよいだろうか。

 車のなかでエディがしてくれた話を、ルースはずっと忘れなかった。しばらくのあいだ忘れていても、右の人差し指にある細い傷を見れば思い出した。傷はいつでもそこにあった(ルースが40代になったときには、傷はとても小さくなって、彼女か、あるいは前もって傷があることを知っている人――わざわざそれを探そうとする人にしか見えなくなった)*8


 これは、4歳のルースが母と別れる直前の場面。「前もって傷があることを知っている人」と、「わざわざそれを探そうとする人」には、それぞれ照応する人物が別個におり、物語の後半で重要な役回りを果たすことになる(前者はもちろんエディ・オヘアである)。
 むろん、これはたんなる「伏線」にすぎず、どんな小説家でも意識的に用いる基本的な技能であって、とりたてて言うほどのことではない、と思われるかもしれない。しかし、上に引用したのは、例をあげればきりがないからひとつだけ例示したまでで、アーヴィングの作品の無駄のなさは、実際のところ度を越しているのである。
 他の箇所と響き合う「細部」が、大きなものから小さなものまで含めて、いたるところに周到に張りめぐらされている。読者はそのことを承知しているから、どんな「細部」も見逃すまいと一行一行をたんねんに読みこむことになるのである。こうして、アーヴィングの世界にどっぷりと引き込まれることになる。
 もちろん、技量がすさまじいということでもあるだろうけれど、この作家がどれほどていねいに作品を仕上げているのだろうかと考えると、気が遠くなる。




 だいぶ長くなった。こんなにいっぱい書いたの、ひさしぶりだ。
 なんか、敬愛する人のことを書くのは、非常に照れくさいものやね。

*1:上巻 18頁

*2:上巻 226

*3:下巻 357頁

*4:アーヴィングの作品の楽しみのひとつは、読んでみたいという気をそそられる小説内小説が、しばしば盛り込まれること。『ガープの世界』や『ホテル・ニューハンプシャー』にもまさにそれが言える。他の作品でも作中人物による日誌や映画といった作品内作品が巧みに挿入されることで、作品世界を多面的で重層的なものにしている。

*5:下巻 454頁

*6:あるいは、「生きたまま」に「死者」になるのではなく、文字どおりの死者になるという道もあるのかもしれないが。恐ろしいことに。

*7:下巻 105頁

*8:上巻 260頁