奴隷のマナー

 「国旗・国歌を敬うのは当然だ」みたいなことを言う人がいて、そういうのを聞くたびに私はいらだつ。
 そういった意見のロジックのひとつに、こういうものがある。すなわち、他国の国旗やら国歌に敬意を表するのは、相手国の国民に対する「マナー」であり、その「マナー」を有した常識人を育てるためには、自国の国旗国歌を尊重する態度が養われなければならない、と。
 「国歌」に関してはいずれ書くことにして、今回は「国旗」に話をしぼるが、私にはこうした考えは受け入れがたい。上の論理には、「国旗は国民を象徴する」という前提があるように思える。しかし、「旗」が集団を象徴するという見方は、少なくとも一面的だとは言えるし、これに敬意を表する行為は(「自国」の旗にであれ、「他国」の旗にであれ)倒錯と言えるのではないだろうか。
 旗というものと、いくさは切り離せない。いくさにおける旗の機能には、2つあるように思う。
 ひとつは、敵と味方を区別するということである。つまり、戦場において、斬りつけるべき相手が誰なのか、銃口を向けるべき相手が誰なのか、ということを明示する機能である*1石原慎太郎を知事にいただく東京都が、教育委員会を通じて押し進めている国旗掲揚の強制とこれに抵抗する教師への弾圧は、この意味での正統な旗の使用法にのっとっている、と言えよう。
 いくさにおける、もうひとつの旗の機能は、占領者が占領地に「しるし」をつける、ということである。いわば、マーキングだ。犬が電柱におしっこをひっかけて自分の縄張りを主張する、あるいは猫が後頭部をグリグリ押しつけて自分のにおいをくっつける、というのに似ている。
 私は、「日の丸」に限った話をしているのではない。「ユニオン・ジャック」は植民地に掲げられたのだし、「スターズ・アンド・ストライプス」も、先住民たちが生活していた土地を勝手に区切り、自分たちの「所有権」を主張するために掲げられてきた。
 また、私はたんに「歴史的」な話をしているのではない。卒業式や入学式に「国旗」を掲げるべきかどうかという問題は、学校が「誰のものなのか」という「所有」の問題であり、これは所有権をめぐるいくさである。その名に「都立」や「区立」と冠された学校は、誰のものなのか。日本という「国家」のものなのか、東京都の官僚機構の末端なのか、各校の生徒や教師や職員のものなのか。それとも、それはそもそも「所有」されるべきものなのか。
 さて、話を戻すと、「国旗」を国民の象徴とみなし、「国旗」に敬意を払うべきだとする考え方は、どうして生じるのであろうか。江藤淳みたいなことを言うようだが、私見では、「被占領者が占領されている事実を忘却することによって」である。
 祝日に自宅に日の丸を掲揚したりする人がおり、それは勝手にすればよいのだが、私のような非国民から見れば滑稽である。だって、占領者の旗を自宅に掲げているのだから。本人は、「自分の」国家に敬意を表しているつもりかもしれないが、非国民の目には、「私の家が日本国に占領されました」と自分から周囲に触れまわっているように映る。「おいおい、自分で旗立ててどうする」てなもんである。
 他国の国旗を尊重するのは、相手の国民への敬意の表明だって? あなたも占領されておめでとうってか?
 国旗を尊重するのは「自然なこと」だろうか。自分がどこかの「国民」であるということに何の疑いも持たずにすむ人にとってはそうなのだろう。しかし、それは「人間」にとって「自然」なふるまいとはかならずしも言えない。「国民」でない「人間」もいるし、中途半端にしか「国民」でない「人間」もいるのだから。「国民」にとって国旗を尊重することが「自然」だと言うなら、「非国民」にとっては国旗を燃やすことこそが「自然」だとも言えるのである。なぜなら、それは占領のしるしにほかならないのだから。自分のところに他人の旗を掲げることを強要されるならば、燃やしたくもなるだろう。

*1:厳密に言えば、旗が明示するのは、「斬りつけるべき相手が誰でないのか」つまり「味方は誰か」ということである。この、「味方」を規定するということと、さらに「その場所にいる味方以外の人間はすべて敵である」という命題が成り立つこと(つまりそこが「戦場」であること)との、2つの条件が満たされることによって、攻撃すべき「敵」が誰なのかが規定される。