「美しい日本語」とは何か

小学校の英語「必修化の必要ない」 伊吹文科相(asahi.com)

 新学習指導要領の焦点の一つになっている小学校での英語必修化について、伊吹文部科学相は27日、「私は必修化する必要は全くないと思う。美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ」と話し、否定的な見解を示した。


 小学校での英語必修化の是非には、あんまり興味がない。ただ、この新しい文部科学大臣は、「言語」や「日本語」というものについて、深く考えようとしたことはないんだろうな、とは思った。ま、私だって偉そうなことは言えないが。
 なんとも無邪気だと私が思ったのは、「美しい日本語」なるものが「外国の言葉」(この場合は英語)に先立って、あるいはそこから独立して存立しうると考えるこの大臣の素朴さに対してである。私たちが書き、読み、話している日本語が、いかに翻訳を介してあるのかということに、この伊吹という人はあまりに無知だし鈍感だ。
 現代の日本語を考える際、明治期における英語・仏語・独語文献の翻訳という歴史的プロセスを無視することはできない。語彙については言うまでもない。この時期に翻訳を通じて作られたおびただしい数の熟語ぬきには、日常会話すらおぼつかないはずである。
 少し長くなるが、小森陽一『日本語の近代』(ISBN:4000263188)より引用する。

 欧文直訳体という文体の最大の力は、雑誌や新聞という、活字印刷されるメディアの文字面を、記号的に支配したところにある。文字どおりに、活字印刷され、黙読されるための新しい文体を、記号面において決定したのである。
 先にふれたように、欧米直訳体によって、活字メディアの句読法、パンクチュエーションが確立された。「。」や「、」をはじめ、「?」「!」「――」「……」、そして「 」や( )など、現在あたりまえのこととして使用されている一連の記号は、欧文直訳体をとおして活字印刷された文字面に導入されたのである。たかが句読点と思ってはならない。それが文、すなわちセンテンスの単位を明示する記号である以上、近代の日本語の散文の文体は、結果として欧文直訳的な文の単位を持たざるをえなくなったのである。
 その最大の特徴は、どのような場合でも主語を明示して、述語と対応させる、という新しい文体を創り出さざるをえなかったところにある。(中略)
 あるいは「〜しつつある」といった動詞の進行形を翻訳しようとした表現や、「〜するところの」「〜としての」といった関係代名詞や関係詞を直訳した表現。そして指示代名詞が、その語の後の事を指すような表現(たとえば「これは言うまでもないことだが、近代の日本語散文は基本的には欧米の翻訳文体だったのである」といった表現のこと)。
 また擬人法を中心とした比喩表現は、明治期において文体の「バタ臭さ」の象徴のように言われていたし、「要するに」「かように」「……にもかかわらず」「……するにはあまりに」「……するや否や」といった慣用句的表現も、起源は欧文直訳体にある。このように整理してみるならば、要するにかくいう本書の文体もまた、日本語と言うにはあまりに翻訳文体であるにもかかわらず、あたかもそれらが日本語の文体であるかのように装っているだけのことであり、学術的な文章を書こうと思うや否や、翻訳文体であるところの欧文直訳体に支配されてしまうのである*1。[下線強調箇所は著者による。原文では傍点。]


 書き言葉はもちろん、話し言葉にもまた、こうした翻訳の痕跡が深く刻み込まれていることをみるのは、そう難しいことではない。しかも、「欧文直訳体」のみならず、私たちが日常的に話している言葉、とりわけ副詞や接続詞の多くが、漢文の読み下し(すなわちここでも「翻訳」)を経ていることもまた明白である。たとえば「未だ……ない」「たとえ……としても」といった呼応の形式が、漢文の読み下しによって可能になった「文体」にほかならないことは、明らかだろう。
 伊吹大臣が言うところの「美しい日本語」を見いだすためには、おそらく平安時代奈良時代に遡行するぐらいではまだ足りないのであって、いまだ文字のなかった社会までさかのぼらなくてはなるまい。
 私には、日本語にしろ中国語にしろ英語にしろ、「言語」そのものを「美しい」とか「美しくない」と語ることがナンセンスにしか思えないが、「言語」というか文章というものの可能性はその翻訳を経由したハイブリッド性においてこそある、と考える。
 その点で、自分自身が中学時代から高校にかけて受けてきた英語教育(べつに英語でなくて他言語でもよかったのだが)は無意味ではなかったとは思う。結局のところ、私は英語を満足に読めるようにも書けるようにもならなかったのだが、英語の一端に触れることをとおして、「文章を書く」とはどういうことなのか、考えるきっかけを得られたように思うのである。
 たしか高校の2年のころだったかと思う。それがどんな英文だったのか、もはや憶えてはいないのだが、ある日私はやたらと複雑な構文を和訳しようと四苦八苦していた。その英文をなんとか解析し、不恰好ながら日本語の文にできたとき、静かな感動をおぼえた。そうして出来上がった異形の文は、私の見たことのない形をしていたが、その文はたしかに「意味」を与えられている。私はさっきまでこれを知らなかったが、今たしかにこれを知っている!
 翻訳とはそういうことなのではないだろうか、と今になって思う。ふりかえって考えるに、私はその文のささやかな翻訳に成功するまで、「文章を書く」ということを、「内面なるものを、文字という外在的なもので表象(represent)する」こととして理解していたのではないかと思う。しかし、「文章を書く」とは、あるいは「文字を媒介にものを考える」とは、むしろ「対象を操作する」と言うべきことなのではないだろうか。「操作する」ためには「対象」の外部に出なければならない。あるいは「対象」を外部化しなければならない。しかし、言語に超越的な「外部」(「精神」や「内面」といったもの)がないのだとすれば、いかにして「操作」が可能なのか。それは、対象としての言語そのものが複数の体系のハイブリッドとして成っていることによって、でしかない。ある体系から別の体系に「翻訳する」。このことによって錯綜体としての言語の一側面を対象化することができるのではないだろうか。
 このことは、たとえば「日本語」から「英語」といった異言語間の「翻訳」に限られることではない。「日本語」や「英語」と呼ばれる言語の単位が、他言語からの翻訳という過程ぬきに存立しえない以上、「日本語」「英語」といったそれぞれの言語もまた多体系の混淆と捉えるべきである。「日本語」という一つの(と一般的に数えられている)言語内においても、「翻訳」と呼びうる体系越境的な操作を介して文はつづられているはずなのである。
 だから「日本語」と単数形で呼ぶのは、正しくはない。漢字・ひらがな・カタカナを混淆させて表記される日本語は、あからさまにハイブリッドの様相を呈している。「(諸)日本語」を書きつけるとき、書き手はたえず異質な体系間を揺らぎ移動している、はずなのだ。
 あるいは、次のようにも言える。文章を書くとき、書き手はより適切な言葉を「選択」しようとし、またより適切な構文を「選択」しようとする。その「選択」しようという意思を可能にしているのは、言語が多体系の複合として成っていることにある、と言えないだろうか。
 いやしかし、「多体系」や「ハイブリッド(雑種)」といった言い方は適切でないかもしれない。たぶん、言語は「構造」なるものに還元できない。「多体系」を構成するサブの単位としての「体系」、あるいは「雑種」を構成する単位としての「種」を想定することが、はたして可能だろうか。
 私はこうして文章を書くとき、言葉を扱い操作しようとするが、そのための安定した足場、というか「場所」を見つけることはできない。たしかに、そのとき私は揺らぎ移動している。しかし、「どこ」から「どこ」へ移動するというのか。言葉を扱おうとするやいなや、すでにその足場をずらされてしまっている。とどまることのできる「場所」はない。
 「日本語」を「美しい」などと言って美化する気にはなれない。言語を美化するためには、「精神」などといった、言語の外部を仮構し、そこに立たなければならない。そのとき、言語は対象として固定されるであろう。しかし、言語の外に立ったとき、言語はもう言語ではなくなる。「美しい日本語」と思って眺めているところの対象は、もはや「日本語」でも「言語」でもなく、たんなる「物」でしかないのではないだろうか。それは、貨幣を「紙」や「金属」として眺めるのに似ている。文化を博物館に所蔵された「オブジェ」として眺めるのにも似ている。

*1:112-113頁