幽体離脱

 なんつうか休むひまがない。なんにもしないで休むことが生きがいのようなものなので、休むひまがなかったら何のために生きているのか分からない。休まないと、どうなってしまうかと言うと、それは疲れるのである。
 しんどいのは、おんなじ話を、相手は違えど、何度も何度も繰り返すという労働である。ちょい疲れたなあ、ぐらいのときは、しゃべらなきゃならない話を「組み立てる」という力が衰えてくる。組み立てらんない。なんかバラバラなことをしゃべってんなあ俺、と思いながらしゃべる。
 しかし、おんなじ内容を別の相手にしゃべるということは、何度かしたことのある話をまた話すということだから、したがって惰性でしゃべることになるわけで、この惰性というのがヤバイのである。話を「組み立てる」筋力が弱まっているうちは、まだよいのだ。「組み立てる」の前段階の「壊す」というプロセス抜きに、惰性でしゃべっている自分を発見してしまうのが、なんというかヤバイのである。
 話を「組み立てる」とは、すなわち脳内にすでに潜伏している話のかたまりを、いっぺん壊してから、さらに再構成するという2つのステップを踏んでいるように考えられるわけだが、「壊す」方の筋力まで衰弱してくると、気味の悪い事態が生じる。
 「壊す」すなわち部品化してから、「再構成」すなわち部品を組み立て直す、という過程を踏んでいるかぎりにおいて、私たちは自分がしゃべっている内容を自覚しているつもりになれるわけだ。ところが、その分解するということができていないまましゃべる――なにせかつて話したことのある話をもう1回しているのだから、惰性でしゃべれてしまうのだ――という状態におちいると、もう自分で何を言っているのか分からない。頭の中は真っ白で、その真っ白な意識が、テープレコーダーのように自動的に音声をたれ流しているもうひとりの自分を、その外から眺めている。
 しかも、聞いている相手は、何ごともないかのごとく、ごく普通に話を受けているようにみえる。何しゃべってんのか俺自身把握していないのに、お前はなんでそんな話を聞けるんだ? それとも聞いてないのか?
 疲れているかいないかに関わらず、話すという行為において、音声が意識より先に行っているという面は、たしかに存在する。つまりそれは、意識に先行して発せられてしまっている音声を、意識が追いかける、という事態である。このとき、意識はけっして言葉に追いつけない。原理的にはそういうことなのだと思う。
 だが、身体が正常な状態にあれば、この「追いつけない」という事実が顕在化することは少ない。意識のプールに、バラバラの部品が転がっている。私はその部品をひとつひとつ拾い上げては組み立て、しゃべっている。そんなふうに錯覚することができる。
 身体の正常さが保ちえないとき、この錯覚は崩壊する。意識のプールには、これから組み立てられるのを待っている部品など存在せず、空虚が広がっている。意識がからっぽであるにもかかわらず、俺はなぜかしゃべっているらしい。勝手にくっちゃべってやがる。
 誰だお前は? ていうか誰だ俺は?