「これ」は「こり」なのか?

 今日になってだいぶマシになったのだが、ここ2週間ほど、肩こりと思われる症状に悩まされている。
 子どもの頃、父親がよく肩こりでつらそうにしていることがあった。私は、「肩こりって痛いの?」などと聞いたものだった。父は「そうか、お前は肩こりなんてまだ分からんのか。『痛い』というのとも違う。説明は難しいなあ」などと言っていたように思う。
 三十路を2つほどまわった最近になって、自分でも「これが肩こりかなあ」と思う感覚をおぼえるようになった。20代の頃から、肩のあたりがうっすらと疲労する感じをおぼえることはときどきあったが、たぶんあれは肩こりとは違ったのだろう。私は、乳房は大きいというのには程遠いし(ぺっしゃんこである)、わりと頑健強靱な体に恵まれたこともあって、この歳まで肩こりというものを知らずにきたのだ。
 しかしこれは「疲労」なんてもんじゃない。「痛い」とも「だるい」とも違う。こんなタイプの苦痛があることを、私は今まで知らなかった。これが昂じて頭痛や眼底の痛みまで引き起こされたりすることもある。
 たしかに我慢できないほどではないし、仕事や生活に大きな支障になるほどのものでもないのだが、「ちょっと疲れたなあ」「だるいなあ」というのとは別種の、相当にうっとうしい苦痛だ。
 「疲労感」であれば、「疲れを忘れる」という言葉があるとおり、それが意識から消え去るときがある。「疲労」は、ふとしたきっかけで思い出したり、反対に何かに熱中している時間には忘れたていたりするものだ。それは、たえず私の意識を支配するというわけではなく、自覚されたりされなかったりという波がある。
 いっぽう、この肩こりというやつは、眠っているあいだを除いて、いっときも意識から離れることがない。始終、じくじくと肩から首にかけてにまとわりついてやがる。
 そんな肩こりと思われるものに悩まされながら思うのは、知覚というものは言葉に媒介されて経験される部分が大きいのだな、ということである。もし、これが先人によって「肩こり」と名づけられていなかったならば、私はこの未知の経験にもっと不安をいだいていただろうと思う。実際のところ、なかなかたいそうな苦痛ではあるのだ。しかし、世の多くの人がこの肩こりというものを訴え、それでもさほど支障なく生活しているのを見ているため、自分の苦痛がそう深刻なものではないとわかるのである。「肩こりで死んだ」などという話はもとより、「肩こりで倒れた」など聞いたこともない。
 とはいうものの、私がいま悩まされている「これ」は、ほんとうに「肩こり」なのだろうか。この感覚は、父が悩まされていたあれと「同じ」なのだろうか。それを確かめる手段は、あるのだろうか。
 マッサージでも受けに行こうかしら。で、マッサージ師に聞くのだ。「私の肩、こってますか?」と。