BUDDY GUY / LONG WAY FROM HOME

 Stevie Ray Vaughan の追悼コンサートを収めたアルバム(96年)より。
 「やり場のない怒り」とか「やり場のない悲しみ」とか言いますわな。そういう憤激や悲嘆にくれる者にむかって、「はい、どうぞ。あなたのために『やり場』を用意しました。思う存分、ぶつけて下さい」なんつって、感情の「やり場」を提供して差し上げる。それは、はたして「親切」と言ってよいことなのだろうか。
 感情の行き場、やりどころ、鉾先、そういったもんを自身で明確にすることは、たしかに生きていくにおいてある程度必要なことだんべけど、人から「はい、どんぞ」って差し出されるのは、余計なお世話だなあ。
 バディ・ガイ氏は「やり場」を指し示すかわりに、空虚を差し出す。惹きつけられた聴衆は、ぐうーんと息をつめ、しかしそのふくらんだ感情ごとポイッと空虚に投げ出される。
 私はこの奇蹟のような演奏に心揺さぶられてしようがないのです。
 彼の発声に私は息をのみ、息をのみながら自身のふくらんだ感情の行き場が差し出されるのを、待つ。待つ、が、それは来ない。彼は、ギターで、あるいはみずからの声でささやいては、そのささやきをぴたっと止めてしまう。また、彼は瞬間さけんでは、そのさけびを弱々しいささやきへと着地させる。その刹那、空虚が広がり、のみこんだ感情の行き場は奪われる。
 吸い込んだ息は、吐き出される機会を失い、身を切るような激しい感情がおそう。激しいけれども、けっして表出されることのない激情。感情がますますふくらむ。身体は外に向かって膨張するわけではなく、でも身体のなかに空間ができる。外界をのみこむような自己の拡張とは異なる、小宇宙の広がりとでも言うのか。
 間奏で、出棺のときに鳴らされる長く平らなクラクションに似せた、単音のギターが響く。「ベタな演出」にもなりかねないところだとも思われるのだが、これがみごとにきまっている。考えてもみれば、出棺に立ち会う誰が、哀悼のクラクションの「止むこと」を待つだろうか。それが「止む」ときは、別れが決定づけられるときなのだ。
 私は、クラクションが止まず永遠に鳴り続けることを、息をのんで望む。それはついには弱まり、消えてしまうけれども、だからといってのみこんだ息をほっと安堵して吐き出すなんてことはできないのだ。ため息すらつけずに、感情は蓄積されていく。


 なーんちゃって、ぐへへへへ。下手なポエムじみたものを書いてしまいましたわ。ぶひー。
 YouTube に動画がありました。上の駄文はともかく、一聴の価値ありです。
YouTube - Buddy Guy - Long Way From Home


 同じアルバムに収録されている、Bonnie Raitt の演奏も、秀逸! ざらついたギターに、ざらついたボーカル。投げやりのようでいて、熱のこもった、非常にカッコイイプレイです。
 これも YouTube に上がってた。
YouTube - Bonnie Raitt - Pride & Joy