雪に閉じこめられて

 晩のうちに雪が降りつもったことは、なぜかわかるものだ。それはカーテンをめくってみるまでもなく、ふとんの中ですでに確信している。
 肌に触れる空気の冷たさと湿気のぐあいから、判断しているのだろうか。それとも、地面が柔らかい雪で覆われることによる音響の変化を、聞き分けているのだろうか。いずれにしても、無意識的な直感として、すでに雪が道路や庭を埋めていることは感知せられる。
 私がかつて暮らしていた町は、年のうち3ヶ月あまり、雪に閉じこめられるのだった。その長い冬の間、土を見ることはない。
 かくして、土の見える時期と、足元には雪しか見えない時期を、交互に過ごすことになる。雪景色は、かならずしも「純白」などと形容されるようなロマンチックなものではなかった。
 子どもだった僕らは、たしかに狂喜して一面に広がった銀世界へと飛びだして行ったものだが、時間の経過とともに蓄積されていく疲労は、しまいに僕らを仲たがいさせるのがつねだった。遊び疲れた体には冷えが耐えがたく浸み込み、みなが不機嫌になるのである。些細なことでいがみ合い、顔を殴りつける吹雪が互いの不信感を増幅する。
 たしかに、真っ白く包まれた世界はこの世のものと思えず、充分に私を魅惑してやまなかったが、同時にそれは死の世界だった。長くとどまれば、待つのは凍え死にである。その日のうちに家に帰らなければならない。
 本気で家出を考えるということが度々あったわけではないけれど、雪はそれを夢想することさえも禁ずる。なぜなら、吹雪のなかで生きのびることは、たった一晩ですら、おぼつかないのだから。「しばらくしたら帰らなければならない」という意識に囚われて過ごす時間は、ひたすら憂鬱だ。カラータイマーに縛られたウルトラマンのように、時間は無限の広がりを失い、「今」という時は帰宅するまでの「猶予」という限定された時間でしかない。
 こうして、北国の人間は、部屋のなかで、燃えさかる大きな石油ストーブを囲む。死の世界に包囲され、窮屈な建物に閉じこめられた僕らは、ともに暖をとる他人を我慢するすべを身につける。ストーブのたてるかげろうに揺らめいて、他人たちの顔は鬼に見えたり菩薩に見えたり。そうやって、感情を折り畳みながら、至福とは言えないけれど、そう不幸でもないときを過ごす。確かな愛情も、はっきりと形をもった憎悪も要らない。
 弥生の月、雪が溶けだすと、湿って黒々とした土とフキノトウの花、それに冷凍保存された犬のウンコが春の到来を告げる。