鏡の左右反転問題

 高校のときの数学の先生に、こんな課題を出されたことがある。

 鏡に映った像は、左右が反対になるのに、上下はそうならない。なぜか。その理由を説明しなさい。


 これが説明できたら「定期テストの点数に加点する」だったか、あるいは「夏休みの宿題は免除する」だったか、とにかくエサをぶら下げられたので、結構真剣に考えてみた。
 たしかそのとき先生は、数学的に説明が可能だと言っていたように思う。当時はその答えが出なかったのだが、何年か経って大学生になってから、あるとき突然この問題が解けた(と言ってよいと思うのだけど、どうだろう)。なーんだ、そんな簡単なことか、と。
 「数学的」な説明とは言いがたいけれど、私の答えは以下の通り。
 これは、質問にトリックがあるのだ。
 「鏡の中では左右が反対になる」と言われると、直観的にはその通りだと思ってしまう。しかし、よく考えるとこれはおかしい。
 たとえば、自分の右手が鏡では「左側に映っている」と私たちはつい考えてしまうのだが、この「左側に映っている」という判断は、鏡の反対側から回り込んで見ることによって下されているのだ。つまり、反転しているのは「左右」というよりも、「視点」と言うべきなのである。私たちは、身体は鏡の正面に置きながら、視点だけを鏡の裏側に持っていって、「右手が左側に映っている」などと思っている。
 虚心坦懐に正面からよく見たら、右手は右側に映っているし、左手は左側に映っているではないか。ああ、驚いた。
 そういうわけで、問題は解決したと思ったのだが、そうすると今度はまたこれと別の問題が浮上してくる。「右手が左手に映っている」という見方は、はたして「錯覚」と呼んでよいのだろうか。そう呼ぶとすれば、「錯覚」という判断の根拠なり基準なりは何か、という問題である。
 「右手が左手に映っている」と見ること。これは視点の操作と言ってよいと思われるが、この「操作」は鏡像を認識するということと分かちがたく結びついているのではないだろうか。鏡に映った像を「自分」と認識できるのは、人間をはじめチンパンジーや象など高い知能を持った動物だけらしいが、その認識を可能にしているのが、「鏡の反対側にぐるりと視点を持っていく」という操作なのではないかと思うのだ。
 そういった操作なしには、おそらく鏡というものは「意味」を持てないのではないだろうか。まるで、ネズミやミミズクが鏡に映った姿を「自分」と認識しないように。
 だから、「正面から見たら、ほら右手は右側に映っているじゃないか」という先ほどの私の「解答」は、鏡というものが持つ「意味」を棚上げしているんではないのか、という疑問が出てきてしまうのである。先の私の「解答」は、透視画法がそうであるように、視点をひとつに固定するという、やはりこれも一種の知覚操作を経ないと、言えない。つまりそれはある種の「抑圧」の結果としてもたらされる「文化」なのであって、うんぬん……。って、あれ、柄谷せんせいっぽい文章になってきたなあ。