岩井志麻子「依って件の如し」

ぼっけえ、きょうてえ (角川ホラー文庫)

ぼっけえ、きょうてえ (角川ホラー文庫)


 岩井志麻子の作品を読むのはこれが初めて。上記の本は、デビュー作にあたる表題作を含む4編からなる短編集。
 どの作品もひたすら暗い。その「暗さ」の描かれ方において、見事だと思った。
 言葉というものは、不定形の世界を分節する働きによって、照明のごとく世界を照らし、ものごとに輪郭を与える。そうして光を当てるようにして輪郭を与えられた感情というのは、どことなく平板でよそよそしいものだと思う。
 文学にせよ映像表現にせよ、感情というのは、演出によって輪郭づけられ(もっと露骨に言えば「方向づけられ」)、そうやってフィクションの中で形を与えられた「偽りの感情」を(という言い方もロマンチックにすぎるけれど)、私たちは現実の生においても生きてしまっている。私の生きている感情の大部分は、他者の表現によってすでに輪郭づけられた感情を模倣したものにすぎない。そう思いいたることが、自身を振り返ってみて少なくない。
 今回、彼女の4篇の作品を読んでみて感銘を受けたのは、感情の描かれ方における、その抑制され具合である。どの作品でも、明治の岡山県の暗く貧しい村、しかもそんな村にあって村八分同然に遇される女の生が描かれる。貧困や飢えの苦しさ、差別を受けるみじめさといったことが描かれる「設定」からは、読者は反射的にある種の「感情」を立ち上げてしまうものだと思う。けれども、そうやってあらかじめ身構えて用意した読み手の「感情」に、彼女の作品は回収されない。「苦しさ」「みじめさ」ははっきりした輪郭をもった感情として提示されるのではなく、これらの作品にあってはぼやけたままなのだ。
 印象深いのは、描かれる女たちの心象の「鈍さ」である。彼女たちの鬱屈した内面は、語り手によっても彼女たち自身によっても、明瞭に対象化されることがない。
 4編のうち、私がもっとも気に入ったのは「依って件の如し」という作品だが、そのなかに例えばこんな一節がある。

 シズは牛とともに寝起きし、時には牛の餌とまったく同じ稗(ひえ)も食わされた。シズの方には灰が混ぜられていないというだけだ。シズは決して土間から上には上げてもらえない。牛があげてもらえないのと同じだ。ただシズには名前があり、牛は牛としか呼ばれないだけのことだ。牛と並んで藁に腹ばいになり、囲炉裏でいい匂いをたてる鍋の湯気を見たり畳の部屋でナカが赤ん坊のための着物を縫っているのを見ても、さほど切ない気持ちにはならない。ただ、夜には閉じられる障子だけは何やら気味の悪いものに映った。


 このシズという女の子は、ただ一人の身内である兄ともども村人たちから忌避されており、兄に向けて「兄しゃん」と呼びかける以外に、言葉を発する機会を持たない。「兄しゃん」という言葉だけで兄は妹の言いたいことを了解するので、ほかの言葉を必要としないのだ。
 だから、シズはたとえば「疎外感」とも言い表されるような「切ない気持ち」として自身の感情を切り分けることはない。彼女の感情は、自身の内なる「感情」としてではなく、「気味の悪い」障子として、彼女の目の前に「彼女自身」から切断されてある。
 このように描かれた作品世界にあって、亡霊や生き霊が跋扈するのは必然であるように思う。光量の抑えられた世界においては、生者も死者もその輪郭を明瞭に照らされることなく、その間の境界線はあいまいである。
 以下は、この小説の冒頭部分の一節。

「悪いことなら口にすな。本当になるけん」
 今朝も兄の利吉は、シズにそれだけを言った。シズは何時ものようにただ頷いた。この兄妹が暮らす筵掛けの小屋から覗く平坦な視界を遮るものは、不揃いに伸びて歪んだ細い木々と半ば崩れかけた藁葺き屋根の家々、棘だらけの夏草に覆われる石積みの粗末な墓だけだ。三十三回忌が済んだ古い位牌は村外れの朽ちた粗末な木の堂に集められ、雨曝しになっている。古い死者の魂は行く当てなく村境を彷徨い、拝まれるものにも恐れられるものにもなれず、死んだ後も土の色の百姓でしかなかった。
 ただ一つ、七回忌も済まないのにそれらの古い位牌とともに祀られる死者がいた。小径の端に土盛りだけをした墓ともいえない墓があり、そこには女が埋められていた。その女は死してなお村人を恐れさせていた。牛もそこを通りすぎるときは必ず身を竦(すく)ませる。人の目には見えないが、牛には今もその女が見えるらしかった。


 シズにも兄にも「その女」は見えているのだが、それは言葉にしてはならない。口にしたら、「本当になる」から。言葉でくまなく照らされることなく、茫漠としたままの村の風景。
 さて、この小編は、いわば「ミステリー」仕立てになっているとは言える。つまり、シズという父母を知らぬ女の子のルーツ*1が次第しだいに「明らかになっていく」という構成の物語である。その意味では、暗くてよく見えなかった陰惨な「真実」が、物語の進行にともなって、だんだんと光を当てられて浮かび上がっていく、ということになるわけである。
 ところが、それですっきりするかと言うと、すっきりしない。たしかに、その結末においては、物語の話者によって「謎」はことごとく解かれるのだし、シズもおのれが感づいた「真実」の一部を兄に向かってふと口にしてしまう。でも、シズが口にするのは「真実」の一部であって、彼女自身はその決定的に重要なところにはついに口を閉ざしたまま、物語は終わる。
 これは私の恣意的な解釈になるかもしれないが、シズは沈黙したまま、しばらく兄とともに生きていくであろうことが、この小説の結末部分では暗示されているように思う。「悪いことなら口にすな。本当になるけん」という最初の兄の言いつけどおり、彼女は見えていてもそれを言葉で照らすことをしないだろう。そのようにして、シズという少女の、言葉によって感情を切り分け対象化されない模糊とした生(したがって「悲しみに耐え」たり「絶望にうちひしがれ」たりといった「感情」より以前にある生)が、この作品では描かれているように思った。結局のところ、人生のほとんどの時間は、この作品世界の村を覆う「鈍色の曇り空」のような暗さの中で生きていくしかないのだし、これまで大多数の人間はそうして死んでいったのだろうと思う。

*1:「ネタばれ」になってしまうので、ここに詳細は書きません。