「それ」は作動している

 いまちょうど仕事の谷間の時期で暇なのだが、三十路を過ぎてからというもの、こういう緊張のゆるむ時期によく体調を崩すようになった。いよいよ身体にガタがきだしたのかな、と思う。
 ここ数日、激しい腰痛に悩まされている。腰をかばおうとしたためか昨日までは左腿がキリキリと痛んだのが今日になってやみ、かわりに今度は右側の膝からふくらはぎにかけて痛みだした。同時に腰から上も、いまは左半分の痛みはひいて、右半身だけに強い痛みが残っている。
 立ったり座ったりという動作がひどくおっくうだ。とくに立ち上がろうとするときがひと苦労である。ジーンと鋭い痛みがまっすぐ、尻を起点にして上下の右半身に走る。
 椅子に座っているあいだは痛みは落ち着いている。立ち上がったあとも、同じ姿勢をしばらく保っていると楽になる。ところが、動くとなると、止まっているあいだ蓄積された痛みが一挙に吐き出されるかのようにおそってくるのである。
 そういうわけで、「自然な動き」というのができない。呼吸を乱しつつ、ロボットのようにぎくしゃくと歩いている。
 身体が不調になると、おもしろいことに、平時において不可視だった身体が現れる。痛みを通して、身体が「見える」ようになるのである。痛むことで、神経の通り道が浮かび上がる。呼吸が乱れて頭が朦朧とすることにより、呼吸と脳の働きの相互関係が実感できる。息のリズムがおかしくなると、痺れた脳を救出しようと焦るかのように、脳に行く動脈が急いで脈打つように感じられるのだ、錯覚かもしれないけど。
 肉体とは別に「精神」とか「魂」とかいうものを想定するのは、健常時の妄想なのではないか、とそれ自体妄想めいたことを考える。身体が透明で空っぽと感じられるかぎりにおいて、その容器を満たすものとしての「精神」が想像されるのではないだろうか。
 痛む身体は、その持ち主を唯物論者にする。神経は不快な信号を伝え、血管はぎこちなく収縮し、関節はギシギシときしみ、筋肉は運動に抵抗する。どこに「魂」の住まう場所があろうか。存在するのは諸器官の「働き」だけであるように感じられる。
 なるほど、その「働き」を見ている主体があるではないか、それが「精神」ではないのか、ということも考えられる。けれども、そうやって自分の身体を「見ている」ことにも、やはり「痛み」はかよっている。「痛み」(身体)を「見ている」のではなく、むしろ「見ている」ことが「痛み」(身体)の一部なのであって、したがって身体の外部に主観・主体が出ているという感じではないのだな。もうなに言ってるのか分からなくなってきたけど。腰痛い。