Brian James Gang の新譜が届いた

 先日(12月3日のエントリ)で触れた Brian James Gang のアルバム、注文していたのが届いたので、このところずっと聴いている。予想以上にすばらしい。
 もとより彼はギタリストなわけで、ボーカルは不得手なわけである。しかし、下手なりに味は出ているように思う。どういうボーカル・スタイルかということを説明しようとすると、小中学校で同級生だったスズキくんを思い出す。
 スズキくんのようなタイプはどの学級にも一人くらいいるのではないかと思われるが、みてくれで損をしている人だった。手を抜いているわけではないのに、教師などからは「まじめにやれ」「覇気がない」などと叱られるのであった。たしかに、表情に乏しく、いつも口を半開きにしていたし(そこから細くとんがった前歯が覗くのだった)、顔色もよくなかった。しかし、だからといって「まじめにやれ」などと責められるいわれはないではないか。
 学校とか企業とか軍隊とか、そういったところでは「やる気」を態度で示さなければならないのである。口を半開きにしているだけでいじめられる。難儀なことである。このたびの教育基本法改正案にあっては、「我が国と郷土を愛する」態度や「勤労を重んずる」態度を養うのを目標にするのだそうだ(第二条)が、「覇気がない」、あるいはそう「見える」子どもたちにとって、ますます難儀な世の中になったりしないものかねえ。「態度」というのは、まさしく「適応」の問題であって、「態度で示せ」と迫ることは「不適応」を作り出すことにほかならないのだから。
 しかし、他人事として見る限り、おもしろいのは、たんに「やる気がなさそう」に「見える」というだけのことで、どうも軍曹閣下の癪に障るらしいということであった。軍曹は自分の兵隊たちのうちひとりでも飄然とした者がいると、冷静でいられない。軍曹がいらだてばいらだつほど、かわいそうなスズキくんの無表情はきわだつ。軍曹はそれを見てますますいらだつ。それを私はひそかに痛快な思いで眺めていたのであった。
 ジョニー・ロットンがけだるそうに、というか芯を外したような歌い方をしたのは、《わざと》であろうと思う。それは「挑発」という積極的な意味を持つ。一方、同じパンク・ロッカーでも、ブライアン・ジェイムスがひょろひょろ歌うのは、《わざと》には見えない。がんばっているのかもしれないが、「覇気がない」と見えてしまうのである。意図的であるかどうかに関わらず、なよなよひょろひょろした姿は、なにか痛快で愉快だ。僕のヒーローには覇気がない。
 さて、ボーカルよりもギターの話である。先日も書いたが、この人のギターは才気があふれている。才能の片鱗があちらこちらからかいまみえるのである。残念ながら見えるのは「片鱗」なのだ。
 その要因としてひとつには、ボーカルはひょろひょろだし、曲も凝っているとは言いがたいために、ギターが充分にいきていないということがあるように思う。目を引くような展開もなく、「そんなの俺にだって思いつくぜ」と思われるような安直なリフだけで一曲仕上げていたりする。そんな粗末な舞台装置には不釣り合いなほどかっこいいソロのフレーズ、またノイズをいかしたカッティングのサウンド。適切なボーカリストを呼んで、曲ももっとうまく作り込めば、ものすごいことになるのに。もったいないなあ、という感じもする。
 しかし、これはこれでいいのだとも思う。というのも、彼のギターはおそらく「曲」という単位におさまらないようなものであるような気がするから。あるいは、「曲」の枠組みを逸脱していくところのスリルに、彼のギター・プレイの真骨頂があるように思えるから。
 先日はこの人の速弾きを「ひきつけの発作」にたとえたが、それは「どもる」ようでもある。唐突にどもるようにまくし立てたかと思うと、唐突に黙る。黙ったと思ったら、妙なタイミングでわめきだす。流れにのったかと思えば、突起にひっかかって流れを澱ませる。
 猛烈なエネルギーを持ちながら、それは「生産性」といったものとは対極的なところにあり、ただただエネルギーは秩序からはみ出て蕩尽される。「もったいないこと」はすばらしいことだ。無駄づかいは素敵だ。考えてみれば、生気が「成果」とか「意味」に吸い取られるなんて馬鹿らしいことじゃないか。なにものも産み出さない裸のエネルギーもまた肯定されるべきだと思う。