肉食動物の攻撃性

 よく「攻撃性」の比喩として肉食動物が持ち出されることがある。
 たしかに、シマウマやウサギなど「攻撃」を受ける側から見れば、ライオンやハゲワシら肉食動物は「攻撃者」にほかならない。しかし、「攻撃者」の主観はどうなんだろう。
 たとえば、スズメを狙っているときの猫の感情はどういったものなのだろうか、ということはかなり気になるのである。それは、人間が「攻撃性」という言葉でイメージする感情とは、かけ離れているのではないかと思われる。
 かつて私は自身の攻撃性を持てあましていたことがあって、今だって、いくぶんか頻度と強度が衰えたとはいえ、あの沸々とわき上がってくる「ぶっ壊してやる」「殺したろうか」という感情と無縁な境地には達してない。
 猫もああいう感情をもって、スズメやら金魚やらを凝視しているのだろうか。どうもそうは思えないのである。猫は――観察による印象では――人間の攻撃性に特有のいらついた様子をみせない。
 人間における攻撃性を駆り立てるのは、恐怖や不安であろう。猫も、人間などに対し、恐怖から牙をむいて威嚇したり、爪で攻撃を加えたりすることはあるが、そういった行動における猫の感情は、人間にも想像できる。恐れと表裏一体の攻撃性は、人間にとってあまりになじみ深いものだ。
 しかし、理解しがたいのは、エサたる獲物に「襲いかかろうとする」(この表現自体、獣を擬人化してしまっているのかもしれない*1)ときの、肉食動物の感情である。
 では、猫は「うまそう!」と思って獲物を見ているのだろうか。猫も、人間同様、たとえばサンマなどを焼く香りをかいで、食欲を刺激されているようには見える。人間であれば、煙の香りから、何分か後にそれが自分の口の中でたてる味覚を「想像」し、「うまそう」と感じるわけである(「想像」というより「想起」だろうか)。
 猫も、サンマの、あるいはスズメの味覚を思い浮かべる(あるいは思い出す)のだろうか。もしそうだとすれば、せつないことだ。肉食動物の狩りは大半が失敗に終わるのだから。
 さて、肉食動物が感じているように私は感じることができない、ということが残念でならないのだが、猫は獲物を見ても「うまそう」とは思っていないような気がする。猫が動くものを狙うのは、そういった想像力ないし記憶に媒介された行動というより、むしろ条件付けられた反射行動に見えるからだ。猫は、目の前でひもなどをふってやっても、「意欲的な目つき」*2で飛びついてくる。あれが、まさか想像力や記憶を介しているとは思えない。
 とすると、獲物を前にした肉食動物の主観とはどんなものだろうか。「うまそう」とも感じていない、恐怖や不安にも駆られていないのだとすると。
 私が思うに、それは「楽しい」のではないだろうか。猫は、捕った鳥などを「必要以上」と思われるほどになぶったりするものだが、あれは「楽しい」んじゃなかろうか。人間も子どものうちはよく殺生をするものだが(私もずいぶんとやった)、そのときの感情と、狩りをする肉食動物の感情は似ているのではないかという気がする。実際のところは、確かめようがないのだが。
 ところで、ここでもうひとつ疑問に思うことがある。子どもが虫などを殺す(ときには犬猫が殺されたりなぶられたりすることもあろう)という行動について、「残虐」という形容はふさわしいのだろうか。ふさわしいかどうかというのは、倫理的にではなく、事実として。
 また、そういった行動が、たとえば戦時下の暴力と、「残虐」という同じ形容語でくくられることは、事実として正しいのだろうか。

*1:「襲いかかる」という語は、獣よりも人間の行動について用いるのにふさわしいニュアンスが含まれている気がする。

*2:町田康氏の表現