ジョン・アーヴィング『オウエンのために祈りを』

オウエンのために祈りを〈上〉 (新潮文庫)

オウエンのために祈りを〈上〉 (新潮文庫)


 「犠牲」と「救い」の物語。
 現代版イエス・キリストの物語としては、ほかにスティーヴン・キングの『グリーン・マイル』などを思い出すが、あれも後味のよくない、呪われた作品だった。
 アーヴィング作品における「救い主」はオウエン・ミーニーという少年。オウエンは、何度も彼がくり返し見るある夢が、将来自分の身に起こる出来事だと確信している。また、その夢の中での自分の行為が、神から与えられた使命であると考えている。
 ジョン・アーヴィングという作家は、全編にわたって丹念に張った伏線を、結末近くになってたたみかけるように回収していく、という手法に特別に秀でた人だ。しかも、この物語はちょっとしたミステリ仕立てになっており、仕掛けられていた複数の「謎」が、最終章において一挙に明らかになっていく、という構成がとられている。
 そういう点からすれば、散らばっていた断片がいっせいに集まってひとつの形を作る、すなわち個々の具体的な出来事がつぎつぎと「意味」を与えられていく、あの大円団の快感を読者に与える物語になってもよさそうなものなのだ。
 ところが、その快楽とともに、苦みと不可解なひっかかりの残る物語だ。その違和感がどこからくるのか、充分に読みとれなかったのだけど。
 それはひとつには、この物語が怒れる語り手によって語られているということにあるのではないかとは思う。物語は、40歳代なかばに達したオウエンの親友が、1987年の時点から、自分たちが少年から青年へといたる1950〜60年代を回想するという形で語られる。回想のあいまに、中年になった語り手が、「現在」の合衆国の帝国主義的外交(レーガン政権)に対してくり返し激しい、しかし不器用な批判をぶちまける。語り手の「現在」の怒りが、物語られる「過去」とどうリンクするのか、という点が、この小説を読み解くうえでのひとつの問題にはなるのだろうと思う(そこが、私はまだよく解釈できていないのだが)。
 ともかく、憤激するナレーションという、奇妙な語り口のために、読み手はこの物語が静かな着地点を持たないことをあらかじめ印象づけられる。回想される過去を読み進み、語り手の「現在」に追いつく結末においても、平安がおとずれることはないだろう、と。
 もうひとつ指摘できるのが、この作品は成長物語たることを拒むベクトルを持っていること。「犠牲」の運命をみずから担おうとする主人公オウエンは、子ども並の身長のまま成長が止まるのだし、また声変わりをしないのだ。ネタばれになるので詳しくは書かないが、彼は「成長」しないことによって、「英雄」として「犠牲」になることができたのである。また、オウエンの親友である語り手が、40代なかばにしていまだ童貞であるのも、彼が「成長」において挫折せざるをえなかったことを象徴的に示すものだろう。こうして成長物語として完結されないことによって、この作品のすっきりしない異形さが醸し出されているような気がする。
 先に述べたとおり、結末のクライマックスはきわめて劇的である。にもかかわらず、物語が着地しえていないという点で、読者は宙づりにされるように思う。私は、徐々にさめていくようなさわやかな昂奮ではなく、混乱した昂奮状態におちいり眠れなくなった。
 しかし、蛇足として付け加えておくなら、こうした「ひっかかり」はあってしかるべきだとも思う。犠牲的英雄的行為を安易に称揚したり、またそうした物語に「癒やされて」しまったりという欲望は抗いがたいものであるだけに。うまく言えないのだが、あの語り手の怒りには必然性があるような気がする。