前方から尾行する

 噂話として聞いたことなので、真偽のほどは知らない。公安が「過激派」と定義する、ある新左翼セクトの話である。
 ちなみに、十何年か前に「パスポートサイズ」を謳い文句にした小型8ミリビデオカメラが売られていたが、その開発者のひとりもこのセクト出身者で、このように語っていたという。
「小型化の重要なノウハウは、大学の研究室ではなく、セクトの先輩から学びました」
という話も噂話の域は出ないのだが。
 さて、このセクトのメンバーになると、もれなく公安の職員が配置され、行動や生活が監視下に置かれる。外出しようと家を出ると、いかつい男が待機していて、行く先々に後をつけてくるのだという。
 セクトの側も黙ってされるがままに任せているわけではない。「当局」を監視しかえすために、公安の職員を逆尾行するといったこともするらしい。だから、公安職員は、尾行をまくために、自宅に帰るにも最寄りの駅では降りずに、1つか2つ手前、または先の駅から遠回りして用心しながら徒歩で帰ったりもするそうだ。
 そういうわけで、両者とも互いに、自分が尾行されているのではないかということを常に意識することになる。こうした状況のもと、尾行という任務を成功させるのは、容易でなかろう。というのも、相手は自分が尾行されるであろうことを警戒しているのだから。当然、尾行される側はたびたび後方を振り向いたり、人混みにまぎれたり、いま通ってきた道を逆行してみせたり、さまざまな手を使って尾行者の存在を暴き、またその追跡をまこうとするであろう。
 こうした相手に対し、いかにして察知されずに尾行するか。しかも、セクトの構成員のほぼ全員が当局にいわば「面が割れている」のだろうから、その困難たるや大変なものだろう。
 そこで、その某セクトが驚くべき尾行方法を開発した。彼らのターゲットである公安職員は、尾行者を警戒するとき、当然のことながら後方に注意を向ける。したがって、ただ後ろからつけたのでは、バレてしまう。だが、公安だってまさか「前方から尾行される」とは想定しないだろう。
 みごとな発想の転換である。「尾行は後ろからするもの」という常識を覆し、彼らは公安職員の先を歩いて尾行したのである。
 以上が噂として聞いた話。じゃあ、どうやってそれが可能なのか、という方法の内容までは知らない。ときどき、この話を思い出したおりに、可能な方法を考えてみたりもするのだが、「解答」はちょっと思いつかない。
 もしかすると、そんな方法など存在せず、この話はそのセクトの人がでっち上げたジョークなのではないか、という気もする。だとすると、これはなかなかよくできた作り話なのではないかとも思う。
 三島由紀夫の『金閣寺』に、放火を計画する主人公が、街で見かけた見知らぬ青年を尾行するシーンがある。主人公は、その青年が自分と同じように放火をたくらんでいると直感して、後をつけてみようと考えるのである。

 私は歩みを緩め、学生をつけようと考えた。そうして歩くうちに、少し左肩の落ちた彼のうしろ姿が、私自身のうしろ姿であるように思われてきた。彼は私よりはるかに美しかったが、同じ孤独と、同じ不幸と、同じ美の妄念から、同じ行為へ促されたに相違なかった。いつかしら、後をつけながら、私は私自身の行為を前以て見届けるような心地になっていた。
 晩春の午後には、明るさと空気のものうさのあまりに、こんな事が起こりがちである。つまり私が二重になり、私の分身があらかじめ私の行為を模倣し、いざ私が決行するときには見えない私自身の姿を、ありありと見せてくれると謂った事が。


 他者が「あらかじめ私の行為を模倣し」ているという感覚。尾行者たる自分が相手を追跡しているのか、それとも前を歩いている相手が自分を「前以て」模倣しているのか、定かでなくなるという感覚。これは、たとえば音楽を聴くとき、また文字を読むときなどに、なじみのある感覚である。
 いかに音楽や書物の世界に没入しようとも、対象と「私」との距離が消失することはない。聴き手ないし読み手たる「私」は、少し遅れて対象をつけていくことになる。かといって、その「距離」が一定の幅を保っているというわけでもなく、「私」は対象に近づいたり遠ざかったりする。しかも、「私」は後ろから追尾しながら、いま聴いている音や、いま読んでいるところの文字面を追い越して、先を予想する。ここにおいて、尾行者の意識は対象に先行する。この「距離」の揺れが、奇妙なトリップ感を生じさせるように思う。
 不思議なことに、すでに目の前にある他者の作品が、「私」がこれから実現するつもりのアイディアをまるで「盗んだ」ものであるかのような気がしてくることさえある。その感覚は、子どもが親から「テレビなんか見てないで勉強しなさい」と言われたとたん、「これからするつもりだったのに」と思うのに似ているかもしれない。テレビを眺めている間にはみじんもなかったはずの「意思」が、事後的に捏造されるあの感じ。
 しかし、「するつもりだった」という子どもの言い分には、かならずしもたんなる「言い訳」とは言い切れないものがある。親から叱責された瞬間になって自覚される「勉強するつもりだった」という「意思」は、事後的なものとはいえ、たしかにそこに存在しているのであって、そのとき子どもはウソを言っているわけではないのだから。
 ともかく、こんなことが言えないだろうか。すなわち、意思というのは、過去に存在するのではなく、未来からやって来るものであって、尾行は後方からではなく、前方からなされるのである、と。前方の尾行者を警戒せよ。尾行する者は、自分が尾行しているつもりでいながら、いままさに尾行しようとしている前方の相手から、実は尾行されているのかもしれない。