要するな!

 音楽の演奏を聴いて「要するに何が言いたいの?」と訊ねる人はあまりいない。絵画や彫刻をみて「結局、何が言いたいの?」と説明を求める人もあまりいない。まあ、ぜんぜんいないこともないけど。
 ところが、映画を見ると「何が言いたいんだろう?」と問う人がけっこういるようだし、文学に対してもこういう問いをいだく人がいる。というか、私自身、映画や文学に関して、この表現の外部に「メッセージ」を想定するという態度から自由になりきれないところがある。こういう「メッセージ」を解読しようという態度に意味がないとは言わないけれど、それしか知らないのは愚かだと思う。ブログのコメント欄などに、「要するに何が言いたいんですか?」などと書き込む人をときどき見かけるが、ああいうのはバカである。
 表現がメッセージを含むことはあっても、その逆、すなわち「メッセージが表現を含む」という命題は成り立たない。あらゆる表現はつねにメッセージより大きいのであって、すると表現のメッセージには還元しえない部分、つまり表現からメッセージを差し引いた部分とは何かという問題が生じる。それは――私の理解では――便宜的にたとえば「文体」と呼ばれている。
 では、その意味での「文体」は、形式のようなものなのだろうか。先に述べたように表現からその「内容」にあたるメッセージを差し引いた何かを「文体」と呼ぶならば、それは純粋に形式的なものとしてイメージされてしまうだろう。そんなことが前から気になっているのだが、「文体=形式」と考えるのは浅はかかもしれない、と思いながらこんな本を読んでいる。


作家は行動する (講談社文芸文庫)

作家は行動する (講談社文芸文庫)


 江藤の批評は、むかし『成熟と喪失』を読んだのと(これはなかなかおもしろかったので、今でもときどき読み返す)、あとは短文をいくつか読んだ程度。しかし、この『作家は行動する』はとても刺激的で、いままで読まずにいたのが悔やまれるくらい。江藤が20代のなかばにものした作品で、文学と言葉にたいする若々しい信頼と情熱がまぶしいくらいに伝わってくる。
 250頁ほどのうち、いま50頁ぐらいまで読んだところ。読み終わったら何か書くかもしれないし、書かない(書けない)かもしれない。