大阪市が出ていけ

 いまだ実社会で直接に対面したことはないのだけど、ネット上には「そんなにイヤなら日本から出ていけばいいジャン」という言辞を吐く人をけっこう見かける。かれらはどういう顔をしてキーボードをたたいているのだろうか、ということがちょっと気になる。こういうことを言う人の感覚というのが、よく解らないからだ。
 私にとっての「自明」な感覚からすれば、そりゃ話が逆だろ、と感じる。出ていくのは、私のような「反日的」な思想を抱く者や在日朝鮮人ではなく、日本(という国家)だろうよ、というのが、私にとっての「あたりまえ」な認識だ。国家のぶんざいで人間に出ていけなどとは生意気である。
 こうやって私が「日本が出ていけ」と言うのは、たんに奇をてらっているだけではなく、率直な感覚としてそう思ってもいる。けれど、それは「日本から出ていけ」というようなことを言う人にとってはきっと「あたりまえ」ではないんだろうな、ということは理解できる。溝は深いね。
 ところで、公園で暮らしている野宿者を大阪市が排除したそうで、ひどいなあと思う。「国家権力の横暴だ!*1」と感じる。それは、あくまでも素朴にそう「感じる」ということであって、この機会に論理化をこころみようかしら。というのが、本エントリの趣旨であります。


参考リンク
猿゛虎゛日記 - ホームレスは怖いですねえ


モジモジ君の日記。みたいな。 - 野宿者の居住権──不法なのはどちらか


 前者では、「ホームレスは恐い」という「実感」「『自然な』反応」がテレビをつうじて、いわば作られていくエピソードが紹介されている。その問題化のなされ方が私には興味深かった。猿虎さんは、強制排除はひどいじゃないかという自身の感想をあえて「『自然な』反応」と位置づけたうえで、テレビ番組の街頭の「『自然な』反応」やスタジオにおけるタレントの語る「実感」の、言うならば、いびつさを問題化している(というふうに私は読みました)。
 この問題を語ろうとすると、多かれ少なかれこのような書きかたをせざるをえないのではないかと思う。私にしても、人の居住する場を行政権力が暴力的に奪うのは「いくらなんでも」「どう考えても」「自然な感覚に照らして」ひどいじゃないかと思うのだが、その「自明」と思っていた感覚が、いつのまにやら突き崩されつつある。「あたりまえ」と感じない人がけっこう世の多数派を占めつつあるんじゃないか。というのが、こんにちの状況なんじゃないだろうか。つくづく、気味の悪い世相だと思う。
 後者の記事は、居住権は、公園の通行者の「自由」や「景観」に先行するもので、優先すべきだという議論。基本的にこれに同意するのだけど、ただしアナーキストたる私*2の見方からすると、別の書き方ができそうなので、それを以下に述べる。
 公園はみんなのものだ。ということは、公園は公共的なものであり、誰か特定の者の所有物ではないということでもある。
 ここまでは、前提として私も認める。今回の大阪市の乱暴狼藉を「しかたがない」とする人のほとんども、同じ前提に立っていることと思われる。
 ところが、私は、かれらのように「公園はみんなのものだから、そこで勝手に起居している者が排除されるのもしかたがない」とは考えない。というか、なぜこの前提から「しかたがない」という結論にいたるのか、不可解である。
 「公園はみんなのもの」という前提に立つならば、素朴に考えてその結論は「だから、みんな誰でも公園に入って暮らしてもよい」ということになるんじゃないのか。これは「公園はみんなのもの」と考えるすべての人にとって、喜ばしい結論ではないだろうか。あなたはいつだって望んだときに公園で寝起きする権利を持っている。真冬のこごえるような夜にも、だれも公園で眠るあなたの自由を奪うことはできない。なぜなら、それは「みんなのもの」なのだから。
 それは「公共の図書館はみんなのものだから、誰でも利用してよい」というのと同じだ。念のために記すと、これはアナロジーでも喩え話でもない。だから、(図書館に)「立ち入ってよい」のと(公園で)「暮らしてよい」かどうかとは別問題だ、という反論は無効である。文字どおり、「図書館が公共施設ならば、そこで寝たってかまわないではないか」という意味で書いている。雨風をよけられるし冷暖房も電灯もつくしおまけに本まで読めるという点で、公園よりずっとマシな居住空間になるだろう。寝るためのベッドがないのが難点だが、そんなものは新たに持ち込めばすむ話だ。公民館や学校だって夜間は使っていないんだし、無料のホテルとして開放してみてはどうだろうか。「みんなのもの」はみんなが使ってよい。
 さて、以上は私にとって「自明」すぎる結論だが、それだけに不思議なのは、なぜ私と同じ前提から正反対の結論を導く人がいるのか、ということである。「公園はみんなのものだから、そこで生活するのは許されない」という立論に、説得力のある根拠はありうるのだろうか。
 通行のじゃまになるからだろうか。じゃまになるというなら、本人に「すみませんけど、ちょっと通してくれませんか」と言えばよいだけの話だ。そもそも、野宿者のテントが通行をさまたげているという状況がそうそうあるのだろうか。大阪の長居公園というところに私は行ったことがないが、私の生活している街のホームレスたちは、通行人なんか行き来しない公園や駅のすみで身を縮めるようにして寝ている。かれらが他の通行人や利用者をさまたげているというのならともかく、そうでないのなら、それはおたがいに他者の自由をおかすことなく公共の場を占有するではなく分かち合っているということであって、望ましい状態ではあっても*3、わざわざ行政が関与することではないんじゃないの。
 「みんな」はうまくやっている。だから、長居公園から大阪市は出ていけ!


関連(するかもしれない)エントリ
やねごんの日記 - 奴隷のマナー

*1:この場合「市」ではあるけれど、自治体の強制力は国家権力によって権威づけられている。

*2:といってもプルードンとかちゃんと勉強したわけでなく、セックス・ピストルズが「おらぁアナーキストだ」と歌っていたのに感化されてそう言ってるんですけど

*3:一応補足すると、野宿を強いられることが「望ましい」と言っているのではない。