空疎なおしゃべり

 夢のイメイジはどこに由来するのか、それは「現実」からやって来るものなんだろうか、というようなことをときどき考える。
 たとえば僕は、空中を浮遊しながら移動する夢をよく見る。胸を下にして、身体をぴんと伸ばして前に投げ出すと、飛べるのである。街のはるか上空を進むこともあれば、地面すれすれに浮きながら前に向かっていくこともあるが、いつだって僕はみじんも自分が地面に激突するなどという考えをいだかない。決して疑うことはない。頭を前にして手足をを動かさず空気に身をゆだねるようにすると、ゆっくりとふわりと浮くことができる、と。
 この夢が、プールの水面に浮く、あのよく知っている感覚と似ているのはたしかである。すると、この夢の浮遊感は、「現実」の感覚のイメイジを借りてきて、空を飛ぶというシチュエーションにはめ込んだものなのかもしれない。
 しかし、なんでそんなややこしいことをするのだろうか。素直に水に浮く夢を見せればよいものを。
 反対に、現実が夢を模倣しているんじゃないか、という感覚に襲われることもある。僕がその夢を見たのは、たぶん1度きりで、それもまだ十歳になるかならないかという大昔に見たのではなかったかと思う。なのに、僕はいまだに鮮明に思い出すことができる。
 目を醒ますと寝室が炎と煙に包まれていて、どうやら僕は取り残されたらしい。幾重にも取り囲む火炎の柱をよけながら必死の思いで外に逃れようとすると、向こうによく見知った親しい人たちがなごやかに談笑しているのが見える。そこにつどっているのは、みな生きている人のはずで、僕は彼らの方に這い進もうとする。
 文字どおり焦燥にかられて彼らの助けを求めようとするのだが、彼らは僕に気づいているのかいないのか、お互い笑い合ってはおしゃべりを続けている。どんなに大声を出しても、どんな言葉を叫んでも、けっして「向こう側」にいる彼らに届くことがない、ということを僕は知っている。彼らは、あいかわらずとりとめのない談笑をいつまでも続けるだろう。
 しばらくたって、なにかのはずみで僕は炎の壁を突き抜け、「向こう側」に達する。壁を越えた瞬間、彼らは僕の存在に気づき、あたたかく迎え入れてくれる。「向こう側」だったものが「こちら側」になり、「こちら側」だったものが「向こう側」になったのだ。
 かくして、火災から逃れて九死に一生を得た(夢のなかの話ですけどね)わけだが、どうもそれ以来、僕は居心地の悪い生を生かされているような気がする。火に包まれたあの空間からかいま見た、「彼ら」の残酷な談笑を忘れることはできない。ところが今度は、火の手を逃れ越境して生を得た僕が、「彼ら」の仲間の一員になって、あのくだらないおしゃべりに加わっている。
 たしか、向こう側からはなにひとつ僕の声は届かなかったはずだ。それが、「壁」を越えたとたんに、どういうことだろう。とつぜん「コミュニケーション」とやらが可能になった。それは、「壁」の向こうの僕からは、空疎なおしゃべり以外のなにものでもなかったのではなかったか。
 ただ、こんなふうに居心地の悪さを感じるのは、あのとき火柱の向こう側に自分の一部を置いてきたからではないかという気もする。その残してきた自分の一部を、「こちら側」に取り戻そうとは思わない。なぜなら、僕は「こちら側」でくだらないおしゃべりに興じる「彼ら」の仲間になんかなりたくないのだから。