ホフマン「砂男」

ホフマン短篇集 (岩波文庫)

ホフマン短篇集 (岩波文庫)


 寝つけないものだからちょっくら小説でも読もうとパラパラ頁をめくり始めたのだが……。まいった。あまりのすばらしさに昂奮してしまった。よけいに眠れなくなった。
 この短編、さっき読み始めるまですっかり忘れていたのだが、小学生のころに読んだことがあったのだった。たしか岩波だったと思うけど、ジュニア向けの文庫があって、シャミッソー「影をなくした男」と、この「砂男」、さらに何かもう一編おさめられていたかな。ともかく、ヨーロッパの幻想的な古典的短編を何編か集めた本を母から買い与えられたのだったと思う。
 さて、自分のも含めて人間のいとなみは、ときとして「人間的」にも見え、また「機械的」にも見える。あいさつがわかりやすい例だ。あいさつというのは、一方では「人間的」な「心の問題」と考えられているからこそ、会社みたいな組織でも「あいさつ励行」とかいって朝会なんかで「おはようございます」「いらっしゃいませ」などとみなで唱和したりするところもあるようだが、他方で、朝に出会えば「おはようさん」夕に出会えば「こんばんは」客が来れば「いらっしゃいませ」などと声を上げるのは、自動的な条件反射のようでもあり、機械じみて見えないこともない。「いらっしゃいませ」も百遍となえれば、ああ今日も私はメカニズムの歯車であるなあと感じるし、またそういう感覚はとくに相手との役割的関係(「店員と客」だとか「上司と部下」だとか)を意識させられる場合ほど強くなる。
 あいさつのような卑近な例にとどまらず、言葉という媒介で他者とやりとりをするとき、あるいは貨幣という媒介をとおして取引きをするときには、自分や相手の向こうに、なにやら「人間」の意識や意図をこえたメカニズムが動いているのを感知せずにはいられないことがある。自分の口から言葉が出ているのに、その言葉が自分のものとは思えない、という感じ。あるいは、目の前で他者がぺちゃくちゃしゃべっているのを見て、当人の意図や意思をこえた巨大な社会的なメカニズム自体のおしゃべりを聞いているかのような気にさせられる、あの感覚。
 貨幣もまた、言葉と同様、人間と人間のあいだで関係的に働く「機能」でこそあれ、人間が主体的に所有できるような「もの」ではない。以前ここでも書いたことがあったが、私は、値のはるものなど、思い切った買い物をするときに、きまって離人症的な感覚に襲われる。たぶんそれは、貨幣の、あたかも所有できるかのようで所有できないという性質が、交換の場において如実に顕われるからだろうと思う。つい今しがたまで確かに私の財布におさまっていた、福沢諭吉の肖像が印刷された紙切れは、「私の所有物」であることによって意味を持つのではない。それは世にあまた流通している「一万円札」の one of them であることによって、意味と力を持たされている。また、私がいま手にしている紙切れは、これからも人から人の手へと渡り続け、誰からも所有されることはないだろう。だから、私が貨幣の主人になることはけっしてできない。私は貨幣をおのれの手段にすることは結局できないのであって、逆に私のほうこそが貨幣と交換のメカニズムの手段にすぎない。
 私たちは、他者や自分のいとなみに「人間」を見る一方で、こうして「機械」を見ざるをえないわけだが、「砂男」という作品は、この2つの世界像を矢継ぎばやに切りかえてみせたり、二重写しにしてみせたり、という見せ方がまた見事ですばらしい、と思った。
 物語の筋立ては、大学に通うためにフィアンセのいる故郷を離れた主人公が、晴雨計売りから買った望遠鏡によって、運命と精神を狂わせていくというもの。
 以下、「ネタばれ」あります。もっとも、この作品は、叙述の巧みさと描かれる世界のある種のリアルさでもって読み手をひきつける物語であって、話の筋を知ってしまったからといって読む楽しみがいささかでも減じるとは思えないのですけど。そういった意味では、読み手に隠された「ネタ」といったものは、ないと言えると思います。保証はしないけど。
 以下が、おおざっぱなストーリー。








 主人公は望遠鏡からのぞき見した教授の娘に恋をするのだけれど、じつはじつは、その女は教授が精巧にこしらえた機械であった。ガーン! でも、主人公は帰省して婚約者や親友とともにときを過ごし、愛と友情をたしかめあい、幸福を取り戻したかにみえた。ところがところが、ポケットにあった晴雨計売りの望遠鏡を目に当てたとたん、こんどは婚約者の姿が機械人形に見えてしまい、発狂した主人公は塔から身を投げる。
 物語の前半では、主人公が晴雨計売りのいる大学町とフィアンセのいる故郷を往復することによって、また語りの視点が故郷の親友から主人公へ、あるいは主人公から婚約者へと移動することによって、描き出される世界像が機械的なものになったり人間的なものになったりと切り替わる趣向になっている。つまり、故郷やそこに暮らす親友と婚約者は明るい「人間的」な世界に属し、大学町や晴雨計売り、機械人形の女は暗い「機械的」な世界に属する、という対応関係ははっきりしている。
 たとえば、「機械的」世界観にとらわれているときの主人公は次のように描かれる。

ナタナエルがもどってきて、二、三日もたたないうちにだれもが気づいたのだが、これまでとすっかり様子がちがうのである。先にはおよそなかったことだが、何やらじっともの思いにふけりがちで、その生活全体が夢ともうつつともつかないあたりをさまよっているかのごとくだった。さらにはまた、人はだれも自由だなどと思いこんでいるがさにあらず魔性の力にていよくあやつられているだけであって、こいつに逆らってみてもどうなるものでもなく、運命の定めるところにおとなしく従うしかないなどと口癖のように言うのだった。のみならず芸術や学問にしても自分の意志で研究や創造をしているつもりかもしれないがとんだうぬぼれであって、なくてはならない感動や感激にしても心の中に生まれるものではなく、外部にあって一段と高い力の原理が作用しての話だなどとまで言い張るのだった*1


 この作品は、1813年に発表されたとのことなので、マルクス、そしてフロイトが登場するのはもう少し後のことである。
 私が興味をいだくのは、人間の意志や意識を越えた「一段と高い力の原理が作用して」いるように見えるという、おそらく現代人にとってはなじみ深いある種の知覚の様式が、どのようにして生まれてきたのかということだ*2
 ともかく、主人公ナタナエルは、こうした「外部にあって一段と高い力の原理」の「作用」が見えてしまう、という知覚を身につけて一時帰郷するのだが、故郷の親友や恋人は、彼を意志と意識が支配する人間的な世界へと引き戻そうとする。
「ええ、そうですとも、ナタナエル、あなたのおっしゃるとおりコッペリウスはいやらしい悪魔です。だから魔性の力を振るって怖ろしいことをしでかしますわ。だけどそれはあなたが頭のなかから追っ払わないからのことであって、あなたがそれを信じているかぎりコッペリウスはたしかにおりますとも。あなたの信じこみが魔性の力というものですわ」*3
 こうして、彼の婚約者は、問題は「頭のなか」にある、つまりは意識の問題であると言って彼を説得しようとするわけである。なるほど、「信じこみ」という彼の「意志」だけが問題であるならば、彼女の愛は彼のかたくなさを溶かし、「頭のなか」から悪魔を追っ払うことに成功するであろう。
 しかし、この物語はそうならない。ナタナエルをおそった変容は、不可逆的なものである。そのことは、彼の変容の契機が、望遠鏡という、ものを見る機械を売る商人によって与えられていることに示唆されている。一度獲得してしまった知覚の様式は、けっしてそれを棄て去ることができない。だからこそ、一時はナタナエルも婚約者の言葉を聞き入れ、「頭のなか」の悪魔を追い払おうとするものの、彼は望遠鏡をつい買ってしまうのだし、またそれをつい目に当ててしまって、破滅へといたるのである。望遠鏡を通すと、機械じかけの人形がえもいわれぬ美女にみえ、物語の前半では「人間的」なるものに対応していたはずの彼のフィアンセが機械に見えてしまう。悪魔は、「頭のなか」に隠れているのではなく、目に当てるレンズ、すなわち新しい知覚の様式として外からやってくる。
 いったん人間的なるものの背後に働くメカニズムをのぞき見してしまった者は、以前と同じように「自然に」ふるまうことができなくなる。主人公が大学町で恋におちた教授の娘が、実は機械仕掛けの人形であったことが露見したあとの、町の人々の変化が、次のようにコミカルに描かれている。

[町の紳士たちは]ともあれ自動人形に深い衝撃を受け、それからというもの人間の形をしたものに対して疑いの目を向けないではいられないのだった。そして自分が愛しているのはたしかに人間であって木の人形ではないことを納得するため、歌ったり踊ったりするときにはヘマをしでかし、朗読の際には編物や刺繍、はては狆ころと戯れることまでわざわざ恋人にせがんだりするのだった。こちらの話を聞いているとき、おりにつけおしゃべりを返すように、それも頭と感覚とが正常に働いていることを如実に示すような言葉であってほしいなどと力説するのだった。おかげで愛情が一段とこまやかになった恋人同士もいたようだが、疎遠をきたした組もあり、とどのつまりが「あんまり賛成できない」ということに落ち着いた。*4


 「人間の形をしたもの」に機械を見てしまうという知覚のありよう、これに一度とらわれてしまったら、世界は二重写しにしか見ることができなくなる。一方ではフィクションとしての観念的「人間」を見ようとしながらも、他方で「機械」としての人、メカニズムの一要素としての人を見てしまう。
 こうした二重写しの像を網膜に焼きつけられた目で読むと、一見なんの変哲もないありふれている物語の後日談が、残酷でおそろしいものに見えてくる。

 それから何年かたってのことだが、ある遠い町でクララを見かけた人がいる。やさしそうな夫と手を取りあってきれいな別荘の戸口に坐っていた。元気そうな子供が二人、その前で遊んでいたという。屈託がなく、あかるいクララにぴったりの平穏な家庭を築いたらしいのだ。心みだれたナタナエルとでは、とうてい望めない幸せだった*5


 産む機械!(なんちて)
 メカニズムのメカニズムたるゆえんは、それを構成する部品の固有性・同一性といったものは問わない、という点にある。言い換えれば、部品は交換可能であるということ。部品は「機能」(もう少しだけ「人間的」な装飾をほどこしてこれを「役割」などと呼ぶ向きもあるようだが)として眺められ、部品が入れ替わっても休むことなくメカニズムが動き続けるのを私たちは見せつけられることになるだろう。この残酷さ!(もっとも、これに「残酷さ」を見ない人もいるらしく、平然とメカニズムについての講釈を垂れるだけで、したり顔をしている連中もいる)。
 問題は、そうしたメカニズムが働いているということ自体よりも(メカニズムというなら、人間が誕生する前の太古の昔からずっと働いているであろう)、むしろ、そうした知覚にすでに私たちが深くとらわれてしまっていること、その知覚とどうおりあいをつけていったらよいのか、というところにあるような気がする。すんげえ「反動的」なことを言うようだけどさ。

*1:176頁

*2:「一段と高い力の原理」を「神」と呼ぶなら、そんな認識など大昔からあるじゃないか、ということもたしかに言える。しかし、「神」は擬人化されるかぎりにおいて「人間的」であったのであり、私がここで言っているのは、擬人化された「神」をも越えるメカニズムとしての「一段と高い力の原理」として世界を見るような知覚についてである。

*3:177頁

*4:206頁

*5:211頁