君が代の強制をめぐって

 以下記事を読んでいて、ずっともやもやと疑問に思っていたことに、すこし合点がいったような気がする。


卒業式来賓、校長が選別 都立高 恩師も「お断り」(asahi.com)


 疑問に思っていたというのは、こういうことである。すなわち、東京都当局の君が代強制のやり方が、いかにもあからさまで粗暴な権力の行使にみえてしまう。こういった露骨な強権発動は、それだけ反発をまねくのも当然で、なんでこんな「下手な」やり方をするんだろう、というもの。
 疑問は、もうひとつあって、いま「反発するのは当然」とは書いたものの、教師の側の抵抗が案外に激しいのには、ちょっとした驚きがあったのだ。これを言うと、それや偏見だとお叱りを受けるかもしれないし、じっさい私のごく狭い経験からの印象でものを言ってしまうのだけど、教育公務員には全体主義に親和性の高い人が多い気がする。私自身いなかの、しかも管理教育の色濃く残る時代の学校で初等中等教育を受けたということもあるし、大学時代にまわりにいた教員養成課程に籍を置く教師志望の学生たちを見ても、「一致団結って気持ちいいよね、ほらキミも元気出していこうよ! みんなで一丸ゴーゴーゴー!」みたいなノリの人が多くて辟易したというのもあるんだけど。
 だから、東京都の教師の方々がけっこうがんばって「日の丸・君が代強制反対!」とか言って抵抗しているのを見て、「さすがトーキョーのセンセがだともなるど田舎っこと違うんだべか、こう、洗練されてるつーのすか」と感心していたのである。私の知っている教師は、方法論として「民主的」か「専制的」かに違いはあっても、生徒を「動員する」とか集団を「ひとつにまとめあげていく」とか、そういった発想自体にはあまり疑念をいだかない人が多かったから。
 しかし、記事を読んでちょっと思ったのは、こんにち行なわれている君が代の強制がそうした全体主義的な動員型の権力行使とは対照的、とまで言えるかどうかは留保を要するとしても、それと一線を劃すような権力の発動のあり方を示しているのではないかということである。
 君が代にせよ何にせよ、集団でひとつの歌を歌うのを上からの指示で行なうということについて、そのねらいはふつう「集団の心をひとつにする」ところにあるものと考えられがちだ。でも、記事が伝える、生徒にとって身近な来賓をあえて排除してまで「粛々と」君が代斉唱を「させる」ことを優先させるという行政側の方針が象徴しているのは、ナショナルなものへと生徒たちを「包摂」していくというよりも、むしろ、ナショナルなものからアカ教師どもを「排除」していくという方に、権力行使の力点が置かれていることではないだろうか。
 「恩師」まで式から排除してしまっては、そこでいかに「粛々と」あるいは「朗々と」君が代が斉唱されようと、生徒の側にその歌が「私たちの歌」と思われることはないだろうという点で、「愛国心の涵養」とやらには逆効果にこそなれ効果的とは言い難い(こちらの記事も参照)。このようなやり方で、広く生徒たちを「国民」へと「包摂」していくことはできないし、したがってこれは彼らを「戦場に送る」ための直接的な動機付けにはなりえない。むしろ、君が代の強制は、「国民」というものを切りつめ、そこから「不要」な分子をリストラしていこうという近年の国家の動きと関係しているのではないか。つまり、野宿者が取り締まられ(彼らは「みんな」や「われわれ」とはもはや考えられていないようだ)、社会福祉が切り捨てられていくのと並行した現象だ。
 むろん、「包摂」と「排除」とは一体なのであり、「国民」として住民を「包摂」することは「国民」でない住民を「排除」することにほかならないし、逆に「国民」でない住民を排除することは一方で「国民」を「包摂」することを意味する、というのは一般論としてはその通りだ。しかし、この両者が一体であり同一であるとしても、その運動が「国民」を拡大していこうという文脈で行なわれるのか、それとも「国民」を切りつめていこうとする文脈のなかで行使されるのかによって、その意味は異なってくる。
 もはや、君が代は住民を動員し彼らを「国民」へと作りかえる装置としては作用していない。とまで言うと言い過ぎかもしれないが、「動員」を意図するものではないように思う。それは「国民」のなかの「不良品」を取り除くたんなる踏み絵のようなものとして作用している。
 だからこそ、いまや数のうえでは多数を構成しつつある、排除と包摂のボーダー上にある不安定な「国民」たちの多くは、君が代斉唱に抵抗する教師の側にではなく、都や国家の権力側に味方するであろう。こうして、「国民」への包摂を希求せざるをえない半端な「国民」たち(もしみずから「国民」であることが自明ならば、それは「希求」するまでもないこと)が、国家の「横暴」ともみえる権力行使を正統化・正当化する。