共産党に入ろうかな

 どちらかというと、選挙にはあまり行かない方である。投票という行為が基本的には無意味だと考えているからである。
 たまに、やむにやまれぬ気持ちになってついつい投票所へと足を運んでしまうことがないわけではないが、帰途、なんというか脱力感にさいなまれるのが常だ。「ああ、無駄無駄無駄! くだらないことやってるなあ、オレ」という感じ。そんなときに思い出すのが、むかし聞いたある寓話である。
 小学生のころ、日曜学校というしゃらくせえものに通っていたことがあって、それはそれでけっこう楽しかったのだけど、ある日、牧師先生があらましこんなような寓話を紹介されたことがあった。

 ある小さな村にひとりの旅人がたずねてきたことがありました。村人たちは、貧しいなりに心をこめて客人をもてなしました。何日かたち、旅人が村を離れるとき、村のみんなが話し合って、ひと樽の葡萄酒を贈ろうと決めました。各家から少しずつ持ち寄った酒を、樽に詰めよう、ということにしたのです。樽を受け取って大喜びした旅人は、感謝の言葉を述べると、ロバに乗って笑顔で村を出発しました。
 さて、道すがら旅人はのどがかわいたので、ひと休みしようとロバを降りました。木陰で葡萄酒を楽しもうと考えたのです。しかし、コップに注いで口にふくんだとたん、彼は悲しそうな顔をしました。どうしてでしょうか。


 そう言って牧師先生は演壇から私たちに問いかけたのだった。
 けっきょく物語のオチは、「樽の中に入っていたのは、葡萄酒ではなくただの水だった」というもの。村人たちはそれぞれ「みんながちゃんと葡萄酒を持ってくるだろうから、自分ひとりくらい水を入れたってさしつかえなかろう」と考えたというのだった。全員がそう考えたので、結果的に樽には水しか入らなかったというお話*1
 この日の牧師先生の説教の要旨は、「ひとりひとりの心がけしだいで、全体がよくもわるくもなる」というものだったはずだ。
 しかし、「旅人と葡萄酒」の寓話からは、あの牧師先生と別の解釈と教訓を引き出せるのではないか、とも思うのである。すなわち、「ひとりひとりの心がけと、全体にもたらされる結果とのあいだに、実際にはなんの関係もない」という教訓である。
 かりに、村人のなかにひとりかふたり、殊勝な心がけの者がいて、村の取り決めどおり真面目に葡萄酒を入れたと仮定しよう。いや、これは「仮定」ではなく、じっさい*2旅人が贈られた樽には、わずかな葡萄酒が混じっていたかもしれないではないか。けれども、いずれにしたって、かの旅人にとってそれは「葡萄酒」と言えるようなしろものではなく、やはり「水」にすぎなかったはずなのだ。
 尊敬すべき牧師先生(子供のころの私にとって、彼が「偉い人」であったことはまぎれもない事実である)にたてつくようで恐縮だが、「ひとりひとりの心がけ」などしょせんこんな程度のものにすぎない。
 投票という行為が無意味だと考えるのも、これと同じ理由による。私個人の投じた票が、全体の結果に作用するということは、ほとんど(ただひとつの例外を除いて)考えられない。「ただひとつの例外」というのは、集票の結果、一票差で当選の候補者と落選の候補者が分かれるという場合のみである。ごくまれにこういうことも起きているようだが、そのためにわざわざ投票をするのはバカバカしい。
 投票に関して、いままで少なくとも10人くらいの人には、こういう話をしたことがある。けれども、私のいわんとすることが伝わったと思えたのは、もちろん私の言葉が未熟だったせいもあるにせよ、たったひとりだけだった。
 その人はたしか「実存的な悩み」という言葉をそのとき使ったような気がするが、「そういう無力感ってあるよねえ」と言ったのだったと思う。私がたんに「民主主義」を冷笑する意図で言っているのではない、ということが彼女には伝わったような気がして、とてもうれしかった。
 「民主主義」という、いわば「全体」にかかわるシステムの問題と、「投票」という「ひとりひとり」の行為に意味があるのかどうかの問題とは、べつだ。
 アマルティア・センがどこかで言っていたのだが、20世紀において「民主的」な政府の統治下で飢餓が発生した例は皆無なのだという*3。たしかに、民主的なプロセスで代表者が選ばれる意思決定システムにおいては、為政者には「次の選挙に悪影響をもたらすような施策はとれない」という制約が、ある程度は働く(官僚には働かないだろうけど)。よくできたシステムではある。過大評価をすべきではないにせよ、過小評価すべきでもない、とは思う。
 しかし、私が長い間ぐちゃぐちゃとこだわっているのは、そういったシステムとしての、マクロなレベルでの、「民主主義」の意味のあるなしではない。だから、「投票に行くヤツはバカだ」とか、「投票によって決める、というシステムがナンセンスだ」とか言うつもりはない。選挙に行きたい人にとっては、投票は意味のある行為なのだろう。
 あくまでも問題なのは、「私が」投票に行くということが無意味だということなのだ。というより、投票という政治的なプロセスに「私」が「参加する」のは原理的に不可能なのだ、と言った方がよいかもしれない。ここでの「私」という語が指しているのは、私自身・私個人のことではない。もし、あなたが投票用紙に候補者の名を書くとき、投票に「参加している」と感じるのだとしたら、その瞬間のあなたは「私」ではない。反対にあなたが「参加している」と感じられないなら、そのときあなたは「私」である。それが、先に述べた原理的に「私」は投票に「参加」できない、ということの意味である。
 いまだ説明の言葉を充分適切につむげずにいるのだが、すこし別の角度から述べたい。
 20歳か21歳のころであったかと思う。もう10年以上も前の話。民青同盟に所属する知人に、やはり「投票に意味を見出せないので、あんなものに行きたいとは思わない」という話をしたことがあったのだけど、「だめじゃないか、主権を放棄しちゃあ!」と叱られた(ホントの話)。このとき、反射的に私の口をついて出た言葉が、「ぼく主権者じゃないんですぅ」というものだった。
 当時は自分が思わず発した言葉の意味が、自分で言っておきながらよく分からなかったのだが、いまになってあのときの言葉の意味が少しは理解できるような気がする。ちなみに、「主権者じゃないんですぅ」と言ったときの民青の人の反応がどうだったかといえば、目を白黒させていた。で、それっきり黙っちゃった。すまないことをした。察するに、彼に私の言葉は、私が在日朝鮮人投票権を持っていないことを遠回しに告白したものと受け取られたのかもしれない。だとすれば、底意地のわるい自分は、なかなか痛快な誤解だなあとほくそ笑んでもいるのだが、悪いことをしたなと思わないでもない。まあ、ただたんに「こいつ頭オカシイ」と思われただけかもしらんが。
 さて、「主権者」とはなにか。日本国憲法ではたしか主権は「国民」にあると規定されている(と思ったけど、ちがったっけ?)。で、私の記憶によると、「国民」は20歳になると(18歳だったかしら)国政選挙や自治体の選挙の選挙権を獲得する、というふうになんかの法律で定められていたはずだ。
 私は、今まで何度か投票所に足を運んだことがあって、紙に「自由連合」とか「社民党」とか字を書いて*4箱に入れたら、投票所の人から「おつかれさまでした」と言われて、お茶は出なかったけど、なんか投票できたみたいなので、選挙権は持っているらしい。
 すると、投票はできるらしいけれど、私は「主権者」なんだろうか。先に言ったように、「私」の投票した「1票」が候補者の当落を左右する確率はほとんどゼロで、しかも投票した候補者はかたっぱしから落選する。「私」のどこに「主権」があるのか。そんなもの、ぜんぜんないじゃないか。「国民」が「主権者」なのだとして、それは「私」とはなんの関係もないことだ。
 そこで、考察のヒントを与えてくれるのは共産党の人たちだ。なぜ、彼らは投票に「参加」しようという意志を強く持ち続けられるのか。彼らが投票する候補者だって、たいがい落選しているはずだ。どうして自分のたった「1票」に意味を見出せるのだろうか。
 おそらく、それは彼らにとっての「1票」というのは、足し算できる「1票」だからではないだろうか。彼らには仲間がいる。仲間の「1票」と自分のを足し算すれば、「2票」になる。しかも、彼らは運動によって仲間を増やす、ということに日々(かどうかはよく知らないのだけど)いそしんでいるわけである。仲間がひとり増えるごとに、「2票」が「3票」になり、「3票」は「4票」になるのである。運動にも力が入ろうというものである。
 これは私にとって、うらやましく思うことである。共産党に入ろうかな。創価学会の方が、連戦連勝みたいだし、もっと楽しいかしらね。足し算可能な「1」であること。他者と合成しうる力を持てるということ。「私」の非力さをおぎなう強大な力を自分のものにしうるということ。これは、はなはだ魅力的なことである。
 誰が言ったのか知らないが、マイノリティの定義として興味深い説を伝え聞いたことがある。いわく、マイノリティとは「少数者」を意味するのではない。「数えられる者」という意味を与えられていない者を、マイノリティと呼ぶべきなのだ、と。名言であるなあ。

*1:この寓話と教訓については、なんの本だったか忘れたけれど、森毅が「大嫌いな話」として紹介していたと記憶する。ひとりひとりの逸脱を許さないような窮屈な教訓話はアカン、と。ズルするやつがいくらかいる社会の方が、自分が休みたいときに気楽に「ズルする」側にまわれるのでええやんか、とたしかそんな趣旨だったと思う。これには、まったくその通りだと私も同意します。

*2:物語について「じっさい」などという言い方をするのも変だが

*3:センの定義する「民主的」とは、一党独裁ではなく野党の存在が公認されていること、マスメディアによる政府批判の自由が保障されていること、といった条件をみたすというような意味。要するに、こういった条件をみたす政府には、「貧困や物価上昇の問題を解決しなければならない」というインセンティヴが働くのに対し、独裁的な政府にはこれが働かないのでいざ問題が生じても放置されてしまう、という話。

*4:なぜか分からないが、私が名前を書いた候補者や政党から当選者が出たためしがない。いつも死票。実はなんかの陰謀で、集計において私の票は「マイナス3万票」ぐらいの数字でカウントされているのかも。だったらいいな。喜んで脳味噌マッチョな歴史修正主義者の知事に投票するのに。