ジミー・ペイジ

 近ごろ、どういうわけか Led Zeppelin が身体になじむようになった。
 かつては、ただ大げさなだけで、おんなじリフを延々とくり返すので飽きるし、やたらあちこちで持ち上げられてるけれど、何がおもしろいのかよく分からなかった。
 しかし、聴いているうちに分かってきたのが、彼らの音楽はまったりダラダラと楽しむものなのかしら、ということ。
 彼らをリアルタイムで聴いていた世代というのは、とかくツェッペリンと出会ったときの「衝撃」を強調したがるようだけれど、「革新性」とか「実験的要素」とか「おもしろさ」を探しながら聴くより、素直に聴いた方がしっくりくる。そんなもんあたりまえじゃねえか、と思う人もいるだろうが、煩悩が多いゆえ、なかなかそうできなかったのである。
 バンドのスタイルとかサウンドの肌触りは、ロッド・スチュアートがボーカルをつとめた第1期ジェフ・ベック・グループに一見したところ似ている。絶叫するボーカルに、リード・ギターが関節を外すようなユーモラスなレスポンスを返すところとか。ネクラでずっしり重いブルージーサウンドとか。フロントと言うべきギター&ボーカルの背後からときおりドラムとベースが飛びだしてくるようにしてドンチャン騒ぎを始めるときのやかましさと言ったらねえよ、という感じとか。
 実際、ジミー・ペイジは先行するジェフ・ベック・グループからアイディアを得ているところが大きいのだろうけど、後者の目の覚めるような刺激とは別のところに、レッド・ツェッペリンの聴きどころがあるんじゃねえか、と思ったりもする。
 で、最近ジミー・ペイジいいなあ、と思っているのは、彼の子ども心にあふれた感じである。ガキって、見ている側には何がおもしろいのかさっぱり分からないような遊戯を延々とくり返しているたりする。私も、美しい思い出ではぜんぜんないが、友達といっしょにサボテンの針を抜いては捕まえてきた蟻を串刺しにし、地面に一列に並べるなどという、死んだら地獄に落ちること確実な遊びに日が暮れるまで没頭していた記憶がある。
 森田芳光の「家族ゲーム」という映画に、いじめられっ子の鬱屈した中学生が、「夕焼け」という文字をノートいっぱいに書きつけるのにうつつを忘れ、松田優作演じる家庭教師にぶん殴られるというシーンがあったけど、ああいう感じ。視野がガーッと狭まって、蟻んこやら「夕焼け」の文字やらに没入しているんだけど、その没入する対象に注意のリソースが集中しているぶん、頭の奥の方がぼんやりと麻痺したようになって、その麻痺したところに焦点の定まらない、けれど豊潤なイメージがいっぱいに広がって気持ちいいっていうやつ。
 ジミー・ペイジがギター弾いているときも、そんな感覚なんじゃなかろうか、と想像する。この人、ぜったい聴かせる客のことなんて考えていないよ。ただただ、気に入ったリフレインを無邪気に夢中に鳴らしているように聞こえる。スライドバーが弦をこする音とか、弦どうしが干渉しあう効果とかに、ひたすら没入しながら。
 だから、聴く側としても、エンターテイメント化された劇的な「感動」を期待するのはまとはずれで、ペイジに同一化すると気持ちいいんじゃないかと思う。