暴力の禁止を命じる声(1)

 日本国憲法の第9条を読むたびに、喚び起こされる問いがある。それは「ここで戦争と戦力の放棄を命じているのは誰なのか」という問いである。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」なんて翻訳調の文体で語ってるお前さん、おい、あんた誰なんだよ。
 むろん、ひとつの解答として「そりゃアメリカさんだよ」というものがある。自民党をはじめとするいわゆる「改憲」を主張する人は、現行憲法アメリカ、ないしは連合国による「押しつけ」と位置づけ、「自主憲法」の制定を唱えている。
 しかし、疑問に思うのは、アメリカ合州国であれ日本国であれ、国家にあのような言葉が可能だろうか、ということである。9条の規定および前文のうたう理念には、国家が主張しえない倫理性が含まれているのではないだろうか。というのは、国家はその存立のあり方からして、究極的には暴力を否定しえないはずだからである。
 何年か前に、筑紫哲也の番組に出演したひとりの青年が「どうして人を殺してはいけないのか」という意味の疑問を口にし、「識者」の間で話題になったことがあった。そのときの筑紫さんの切り返し方は、「実は例外として殺人が認められているケースが2つあって、それは国家による戦争と死刑だ」というものだったと記憶する。これに対し「筑紫は若者の疑問にまともに答えずに、はぐらかしている」という批判があったようだが、この筑紫氏の「解答」はすこぶる的確であったと私は考える。
 国家の法において殺人一般が禁止されている、と見るのはナイーブな見方だ。国家は国境内での殺人をふくむ暴力を《独占している》のであって、国家以外の者がおこなう殺人が罪に問われるのは、たんにその独占をおびやかすからでしかない。だから、子どもの「どーちて人を殺ちてはいけないの?」という問いに対して、「大人の国民」としてはこう答えるしかない。すなわち、「べつに人を殺すのがいけないなんて決まりはないよ。ただ人殺しはお国の特権だから、お国に認められてないことをしちゃあ牢屋にぶちこまれるか、へたすると殺されるかだよね」と。

 死刑という殺人の合法性は、国家だけがそれをおこなう権利をもっているということとけっして切りはなしえない。つまり国家は「合法的な殺人」を独占している。そしてその独占にもとづいて、他の個人や集団がおこなう殺人を取り締まり、それによって合法的な殺人の独占を「実効的に要求する」。このことは言いかえるなら、国家がみずからの殺人を合法として、そしてそれ以外の殺人を違法として取り締まるということである。国家は、合法的な殺人をおこなう権利をもつと同時に、殺人を合法なものと違法なものに分割する権利ももつ。これら2つの権利がともに国家に属しているということが、死刑という殺人の合法性の基盤にある。
 死刑における殺人が合法なのは、殺人をおこなう主体と、合法/違法を判断する主体とが同一であるからである。殺人を合法なものと違法なものに分ける権限をもつもののみが、合法的な殺人をおこなうことができるのだ。


萱野稔人『国家とはなにか』(20-21頁)


 ヨーロッパであれ日本であれ、中世・近世には近代国家におけるような暴力の独占が完成していないので、仇討ちが違法でなかったのは周知の通り。貴族や武士が農民をぶった斬ったり、所有する奴隷の手足をもいだり、といった暴力を罰する法が成立しえなかったということ。
 ひるがえって、近代国家が殺人を「違法」として罰するのは、みずからが暴力を独占せんとすることのネガでしかない。「殺すのはオレ様の専管事項だから、おまえらはやるな」と。国家の法において、「殺すな」という規範はポジティブな意味をもつものではけっしてない。
 だとすると、あの憲法9条はなんなのか。
 たしかに、日本は主権国家として独立しておらず、戦後も事実上アメリカの占領下にあるのだという言い分にも一理ある。つまり、占領者たるアメリカが依然として暴力を独占しているのであって、その結果としてアメリカ領ジャパーンは合法的な軍隊を持つことを禁じられているのだ、と。だからこそ、「自主憲法」制定論者は、国士気取りで自衛隊の合法化(9条の廃棄)を画策するのだろう。
 けれども、その9条を、合州国政府自身が邪魔者あつかいし、その撤廃を望んでいるという事実は、あの平和憲法を成立させた力の由来が、合州国や日本国といった国家にはなく、その《外》にあったということを示唆するもののように思われる。
 9条よ、おまえはいったいどこからやって来たのだ? この問いをさらに拡張して、「人を殺してはいけない」という倫理が普遍性を持ちうるとすれば、その理念がどうして可能なのか、と問うことができる。くり返すが、けっしてこの理念は国家に内在するものではない。国家は暴力一般を禁止しえない(だから、「自主憲法」制定の試みは、かならず第9条の否定に帰結する)。というより、国家そのものが本質的に人殺しなのだ。そうした国家の本性たる暴力性を抑止する倫理は、どこからどうやって発生するのだろうか。