印象派のロックンロール?

YouTube - Suede - Trash [1996]


 Suede のナンバー。何日か前に YouTube で見つけて初めて聴いたんだけど、やあもうすばらしい。
 このバンドのフロントマンである Brett Anderson という人は、みずからが David Bowie の大ファンであることを公言しているのだが、この Trash という曲は Bowie の曲からアイディアを得たんじゃないかなあ。以下にリンクした Heroes という曲にそっくりなのである。


YouTube - David Bowie / Heroes


 もちろん、どこかのくだらないパクリ糾弾者が騒ぎ立てるたぐいの「メロディをパクッてる」とか「ボーカルのスタイルを真似ている」とか、そういう表面的な話じゃなくて、もっとベーシックな楽曲のコンセプトというか設計思想というかにおいて、Bowie の Heroes に通じるものを感じるのである。
 このBowie の曲については以前ここで次のように書いたことがある。

 ボウイのシングル・コレクションを通しで聴いていると、この曲を含め、1977年から 80年あたりの彼の作品からは、作り手の悪意というか皮肉のようなものを想像してしまうのである。というのは、これらの楽曲群からは、聴き手の散漫な聴体験を先回りして、それを何と曲のなかに構成してしまっているような風情を感じる、ということである。「君たちがそぞろな気持ちでいつも聴いているのは、こんな音なんだろ?」とでも言うかのように。
 私は、今のところボウイの熱心な聴き手ではないのだけど、この "Heroes" は、恐るべき曲だと思う。この演奏には、注意力が散ったときに私たちが聴くことのできる、「ざわめき」が閉じこめられている*1


 私は Suede の Trash からも、同様の印象を受け、感激したのだった。
 べたべたの甘ったるいサビのコーラス。本来ならここは、盛り上がりどころになるはずなのだが、巧妙に脱中心化されているように思われる。それが傍で過剰に動きまわるグチャグチャしたギターのせいなのか、どこか投げやりな感じの愛想に欠けたリズム隊のせいなのか、それとも別の要因があるのか、よくわからない。ともかく、聴き手の注意は、まさに魅せどころになるはずのベタ甘のボーカルから逸らされる。そんなふうに楽曲として構築されているとしか思えないのである。
 これは、部屋のなかでぼんやり座っているとき、あるいは雑踏をぶらついているときに、いくぶん麻痺した頭が拾ってくる「ざわめき」の美しさに似ている。そんな「ざわめき」に私は惹かれてやまないのだが、それと似た感覚を人工的な表現(アート)において演出しえているということに、驚嘆せずにいられないのだ。われながら馬鹿みたく大げさな言いようだが、マジでガチでびっくらこいとるんであります。
 雑踏の「ざわめき」が美しく聞こえるというのは、おそらくこういうことだろう。つまり「外」への無関心、内に向いた感覚は、無意識のうちに自分好みの要素を恣意的に拾い上げ、その諸要素をやはり自分好みに構成する。「関心」とか「集中」とか「意識」とか「認識」とか、政治的に改革を志向する党派のスローガンにしばしば登場する語彙が指すのとは対極的な心理状態において、美は構成される。何ごとかを注視し対象化する意思の欠如、散漫な感覚が、たんなる無秩序な音の群れを「美しきざわめき」に変換してしまう。
 上記の SuedeDavid Bowie の音源においては、どういうしかたでなのか、巧みに音を配置することで、聴き手がみずからの知覚の働きを通して「ざわめき」を構成するよう仕組まれているのではないか。
 ほとんど妄想じみたことを書き連ねてしまったが、すくなからずショックを受けた曲なのでありました。以上。