近ごろモンスターが徘徊している――○○主義者という名のモンスターが

 最近、なんだかマスコミ上でこういう話題が目につく。


070709毎日新聞社説「モンスター親 先生を孤立させない体制を」

 無理難題というほかはない苦情や抗議を執拗(しつよう)に繰り返す保護者、住民に学校が困惑している。「モンスターペアレント」という新語も登場した。怪物のような親という意味だ。
 「仲のいい子と必ず同じ学級にしろ」「うちの子の写真の位置がおかしい」「チャイムがやかましい。慰謝料を出せ」「子供のけんかの責任を取れ」……。こんなクレームから授業内容や担任交代要求などまでさまざまにある。
(後略)


 対応する先生方や学校職員は大変だね。と同情しなくもないのだけれど、ここであげられている保護者や住民の「クレーム」はある意味では正当な要求とも言えるのではないか。という気も一方でするのだ。
 これら要求が「無理難題というほかはない苦情や抗議」に見えるのは、「学校教育の意義」を自明視する認識を疑わないかぎりにおいてである。しかし、明治の学制施行が農村での激しい抵抗をまねいたのはたかだか100年あまり前のことであるし、ヨーロッパにおける学校とその教師の地位向上が、世俗国家による教会権力の制圧と軌を一にしていた事実は指摘されている。
 長くなるけど、非常におもしろい箇所なので、フランス第三共和政の教育政策についての記述を引用する。

 共和主義的公民の育成を司祭や修道会に期待できないのは自明である。のみならず、彼らがその阻害要因になる以上、共和政当局はぜひとも学校教育の全面的掌握を急がねばならなかった。その意味でフェリー法(1881-82年)はまさに画期的な出来事であった。初等教育に「無償・義務・世俗化」の三原則を導入したこの改革は、学校教育への浸透をてこに再キリスト教化を図ろうとする教会の野望を打ち砕くものであった。(中略)
 翻ってみると、19世紀前半においては、教師の地位はまことにみじめなものであった。とりわけ師範学校が整備されるギゾー法(1833年)以前の教師はほとんど自立的な職業とはみなされていなかった。彼らの多くは、司祭の助手、教会の堂守を兼ねているのが常であり、授業といってもごく簡単な読み書きのほかは、教理問答や祈りの暗唱、賛美歌の練習が中心であった。定収があるわけではなく、生徒の親からほとんど施しに近い農産物の現物提供を受けるだけというケースすら稀ではなかった。ミサの手伝い、教会の鐘つき、墓地の掃除などで糊口をしのぐのがやっとであった。「教師は乞食と同義語」と揶揄される状態では、彼らが司祭の手のうちにあるのもやむをえなかった。
 しかし19世紀中葉になると、師範学校出の教師が多く輩出し、定収も確保されてくるにつれて、こういった状況は多少とも改善されてくる。農村の教師は「教会の堂守」を脱して、村長の秘書や村役場の書記を兼任し、地域の文化活動の先頭に立つ例も見受けられるようになった。一定の知的レヴェルを備えた世俗教師の職業的自覚は、おのずから村の知的・道徳的ヘゲモニーをめぐって司祭と対立せざるを得ない。(中略)フェリー法は、教師の待遇を大幅に改善しただけでなく、正規の教員免状をもたない聖職者を教壇から駆逐したことによって、この積年の対抗関係のバランスを教師の側に決定的に傾けたのである。
フランス近代史―ブルボン王朝から第五共和政へ(191-3頁)


 このように世俗教師は、国家権力を後ろ盾にすることで、生徒の親から施しを受ける立場から村民を指導する官吏へと、たった50年でその地位を飛躍的に向上させたのだという。
  学校や教師の威厳とは、国家がみずから解体した封建制の跡地に敷いた、学校制度あってはじめて保たれるものにすぎない。国家のふりまく機会平等の幻と立身出世の夢が訴求力を持つかぎりにおいて、生徒の親は教師を皮肉ぬきに「先生」と呼び、地域の住民は学校に一定の理解を示す。
 しかし、もはやそんな夢と幻を見ない地域住民にとって、学校のチャイムとはただの「やかましい」騒音でしかない。神聖な寺院の鐘ならぬ学校のチャイムの音は、私的な生活空間に浸入する「公害」にほかならないのであって、「慰謝料出せ」という要求が出るのは必然なのである。
 すでに国家に税金をむしり取られているというのに、そのうえ給食費なるものを払えと言う。ふざけるな、という言い分にももっともな面がある。
 そのほか、子どもが1日に5時間も6時間も縛り付けられる学級の編成のあり方や、教育内容・担任の選定に親が口をはさむこと自体も、みずからの「特権」を自明視する教師には「無理難題」に見えようが、自身を教育商品の「消費者」とみなす親からすれば当然の要求と思えるであろう。
 ただし、教師に同情を禁じえないのは、かれらに世俗の法衣を授与したはずの当の国家から、かれらが「もう用済み」とばかりに切り捨てられつつあるように見えることだ。教員免許更新制が議論されたり、日の丸と君が代を踏み絵にあからさまなアカ狩りを断行したりと、国家自体がその手先であるはずの教師に攻撃を仕掛けている。教師たちに権威を付与してやることで彼らが子どもたちを「国民」へと教化する業務に「自発的に」熱中するよう仕向ける民主主義(戦後民主主義?)国家とちがい、整然とした上意下達の指令系統のたんなる末端へと教師を配置するスターリニズム国家は、教師に権威をさずけない*1
 おまけに、国家にとってもはや教育とは、監督権限だけみずからの掌中に残して、極力市場化するのが望ましい、そうみなされている節がある。
 そういうわけで、教師たちはお上からはその法衣を剥ぎ取られ、裸のまま「消費者」と対峙させられる。すでに法衣を奪われていることに気づかない憐れな教師の目に、「消費者」は「モンスター」と映るであろう。きょうびのモンスターにとって、学校なんてどう見たって機会の公平な分配機関などではないのだから、私塾との区別もあるわけもなく、かれらの一部あるいは今後大部分が、遠慮なく「私的」な「クレーム」を通そうとしてもおかしくはない。

*1:われながら書いてることが支離滅裂だな(笑)。なんでスターリニズム国家がアカ狩りするねん?