なんの真似だいそりゃ?

 人の行動というのは、必ずしも明確な目的意識をもってなされるものではないし、「金銭欲」「性欲」「功名心」といった、わかりやすい欲望によっては説明できるものでないことも多い。そのような不可解な行動を目にして私たちは訊ねる。「いったいそれは何の真似なのか?」と。
 案外この質問はなんらかの真理を突いているんじゃないか、という気がしなくもない。われわれの行動は、打算的な目的合理性にもとづいているのでもなく、また「深層心理」というような本質的で深淵な要因に規定されるのでもなく、遊戯的な「真似ごと」として行なわれている面が大きいのかもしれない。幼児がままごとで、家庭のいとなみを真似るように。

仰天! 段ボール紙詰めた肉まん販売 比率は約6対4(SANSPO.COM)
 11日までの中国中央テレビなどの報道によると、使用済み段ボール紙を煮込んで詰めた偽の肉まんが北京市で違法に販売されていたことが分かった。
 報道によると、段ボール紙入りの肉まんを販売していたのは、同市朝陽区の複数の露店。段ボール紙を劇物のカセイソーダ水酸化ナトリウム)の溶液に浸して黒っぽく変色させ、さらに煮込んで柔らかくした上で豚肉と混ぜ合わせ、肉まんの中身にしていた。市当局者が関係者を取り調べている。販売数、健康被害の有無は不明。
 露店関係者は同テレビに「段ボール紙と豚肉の比率は約6対4。住民、出勤途中の勤め人らが買っていた」と説明した。
 北京市内には多くの露店が立ち並び、肉まんやギョーザ、肉のくし焼きなどを販売。安価で、市民に親しまれている。(共同)


 消費者の身になってみればまさに「仰天!」するような怖いニュースなのだけど、むしろ興味をひかれるのがこの業者が「なんの真似なのか?」という点である。
 だって、原材料費をケチってインチキやって儲けようというなら、ほかにいくらでもリスクが小さくてうまいやり方があるでしょ。どっかで廃棄される予定の肉を安く買いたたいて混ぜるとか。カセイソーダなんか使ったら(これってたしか指先に塗ってこすると指紋が消えるやつだよね)、パクられたときの刑が半端じゃないだろうことは、はじめから予想していたただろうに。
 単純にボロ儲けしたくてやっちまった、とはとうてい思えないわけである。そうすると、「なんの真似なのか?」という疑問が湧いてきてしかたがない。
 ところで、これと似た不可解さをおぼえるのが、ギャンブルにはまる人たちに対してである。私はマージャンもやらないし、パチンコや競馬等の賭けごとにも興味をもてない。
 もっとも、宝くじを買う気持ちはわかる。これはまさしく一攫千金で、3億もあればムリして仕事なんかせんでも当分遊んで暮らせるわけで、そういう欲望は私自身も持っているからである。あるいは、ポーカーなんかだったら、その駆け引きのおもしろさが理解できる。そのように、賭けごとが欲望を刺激するのはわかるし、またカネやモノを賭けることがゲームにもともと内在しているおもしろさを増幅させる、ということも理解できる。
 でも、パチンコはともかくパチスロが純粋にゲームとしておもしろいとはあまり思えないし、馬を見に行くでもなく場外馬券売り場で購入するというのは風情がないよなあ、と傍から見ていて思う。たまに勝ったとしても、一攫千金というほどのものでもないし。
 ではそういった人たちが、ただの暇つぶしでパチンコやったり馬券を買ったりしているかというと、かならずしもそうでもないように見受けられる。競馬新聞に印つけたりして、けっこう研究しながら楽しんでいるように見えるのだ。
 なにぶん、自分がやらないものだから想像でものを言うことになるが、そういうギャンブルというのは、いわばブルジョワを真似た「おままごと」のようなものではないのだろうか。個人としての自己の判断で投資先を決め、いくばくかのカネをそこに突っ込む。判断が正しければ(その「正しさ」は事後的にしか判定しえないのだが)報酬を手に入れ、正しくなければ損失をこうむる、という投資の遊戯。
 知人にマージャンなどのギャンブルの収支を10年以上ノートに記録している人がいる。彼の自慢は、わずかながらも差し引き黒字でまわってるということなのだけれど、驚くのはその禁欲の精神である。彼は、家計とギャンブルでの収支を別口座に分けて管理しており、生活上の消費にギャンブルでの利益をあてたり、逆にギャンブル資金を家計から捻出したりといったことを、原則としてみずからに禁じているのだそうだ。
 まさにブルジョワの鑑ではないか(実際の職業はサラリーマンなんだけどね)。致命的な失敗をしない限りはみずからを再生産して永遠に生き続ける「資本」を、場所と時間に限定された一回きりの「消費」と混同してはならないのであって、また神聖なる「事業」と世俗的な「生活」は厳密に区別しなければならない。
 この人にかぎらず、ある種のギャンブラーが賭けの対象を「分析」し、また収支の「計算」に熱中する様子は、まるで子どもたちが仮構の家としての砂場でままごとに興じるように、仮構された市場で資本家の行動を真似て遊んでいるふうに見える。
 これと同様の印象を、私はくだんの北京の肉まん屋に対してもいだくのである。諸君、カセイソーダダンボールから豚肉の味を引き出そうじゃあないか。やってみるだけの価値があると思わねえか。途方もなく困難な課題をみずからに課して創意工夫を重ねることこそ産業資本家の倫理なのであり、きっと産業資本家こそいま北京のトレンドであり、北京っ子のままごとの対象なのである。挑戦者たちよ! プロジェクト・エーックス!
 考えてみれば、私たちは社会化される過程で、ブルジョワになる者もそうでない者も、ひとしくブルジョワの道徳をたたき込まれるのである。たんなる自分が私的に所有する「財産」に対する処分権以上の意味をもたない自由権(「財産を持たざる者も、自身のささやかな精神と身体だけはほかならぬ君の所有物なのだから、その枠内でよろしく自由にやってくれ」というありがたいお達し)。組織であれ家族や自分自身であれ、ともかく何かを「経営する主体」として理解されるにすぎない「個人」を尊重するというお題目。成功の報酬も失敗の責任も自己に帰属するのだという「自己責任」の教え。公平と機会の均等(個人の才覚と努力だけが成功を生み出すのだと喧伝されながら、実際には成功者があらわれてから後付けで、彼への勲章として「才覚」と「努力」という称讃の文句が用意されるにすぎない)。
 ブルジョワならざる者も、その与えられた狭くるしいお庭で、まるでブルジョワのようにふるまう。では、ホンモノのブルジョワの行動は「おままごと」ではないのだろうか。私には彼らもまた、ままごとを演じているように思えてならない。ホンモノのブルジョワとニセモノのブルジョワをへだてる差は、彼らの活動しうる領域の大小、程度の違いでしかなく、両者の行動はまったく同質の原理にもとづいた真似事のように見えるからである。