ケンリなのかギムなのか

 「権利」と「義務」。対概念とされるこの2つは、なんと相互に入れ替え可能だった! ためしにワープロの置換機能をつかって、日本国憲法の「権利」を「義務」に、「義務」を「権利」にすべて置きかえてみても、ちゃあんと意味が通る文章になるではないか。
 というような話をどこかで読んだ記憶があるのだが、出典が思い出せない。たぶん小田嶋隆さんの昔のコラムじゃないかと思うんだけど。
 実質的な「義務」が「権利」と称され、反対に「権利」が「義務」へとすり替わる国家というのを想像すると、けっこう気味が悪い。
 「納税は国民の侵すことのできない権利である」なんて言って、みんながお布施でもするかのように嬉々として税金を納める。義務としての兵役が課されないかわりに、国防軍への志願者があとを絶たない。靖国で戦友と会うのが無上のよろこび。そんな美しい国
 このような実質上の「義務」が「権利」と称される状況は、あながち空想的なディストピアとは言えない。現に、日本国憲法では、労働は「義務」であると同時に「権利」として規定されている。どっちなんだよ、と私はとまどう。「権利」としての労働を、「義務」としての労働から概念的に区別することができなければ、「権利であり、かつ義務でもある」という規定はたんに矛盾でしかなく、意味をもたない。
 また、教育を受けることは憲法上は「権利」と規定されているものの、事実上これは「義務」として制度的に運用されているし、学校教育を拒絶する子どもは、社会からの有形無形の圧力にさらされる。
 さらに、憲法において「権利」として保障されたことがらを、立法においてあらためて「義務」として規定する例もある。憲法第25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」としているが、2003年に施行された健康増進法は第2条で「健康の増進」を国民の「義務」へとすり替えている。いわく「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」。
 私は法律についてまったくの無知なのだけど、素人考えながらこの法律は憲法違反ではないか、という気がしてならない。「国民」にとっての憲法で保障された「権利」とは、国家の側からすると、それを保障する「義務」を負うということにほかならない。そう考えるなら、健康増進法というのは、「きみが病気になったのは、きみの生活習慣のせいなんだからね、おれは知らんよ」と国家が責任放棄を宣言したものと読むことができるのではないだろうか。肥満者と喫煙者は非国民である、と。まあ、べつに私は非国民でかまわないけどね。
 さて、選挙で投票するのは「権利」だとこれまで私は理解していたのだが、気づかないうちに「義務」にすり替わっていたらしい。

●「丸川さん“投票しなかった疑惑”認める」[Sponichi Annex]
 東京都の選挙権がないことが判明した自民党公認で、東京選挙区から立候補した元テレビ朝日アナウンサーの丸川珠代さん(36)が17日、府中市での街頭演説後、約3年間にわたり選挙の投票に行っていないことを認め、謝罪した。一方、住民税未納の疑いもかけられたが、源泉徴収票のコピーを取材陣に提示し、こちらの疑惑はシロだった。
 丸川さんは午前7時半からJR吉祥寺駅前であいさつを開始。3カ所目の遊説場所である府中市での演説後、集まった報道陣に重い口を開いた。「このような立場で投票をしていなかったことは、本当に恥ずかしいことでおわびするしかない。本当に申し訳ございません。ごめんなさい」と話し深々と頭を下げた。
 アナウンサーとしてテレビ朝日に在籍していた丸川さんは、赴任先の米ニューヨークから04年6月に帰国。その際に自宅のある新宿区へ転入届を提出していなかった。赴任するまでは選挙に行っていたと話したが、帰国後に行われた05年9月の衆院選、今年4月の都知事選の投票を行っていないことを認めた。
 その理由については、仕事が忙しいことなどを挙げ投票権を行使しなかったことを深く反省しております」と申し訳なさそうだった。ただ、本人は帰国後に選挙取材も経験しており、投票の意思があれば自宅に投票所整理券が届かないことを疑問に思うはず。選挙に対しての基本的な姿勢が問われそうだ。
(強調引用者)


 なぜ「権利」を行使しなかったことを謝罪しなければならないのか。これはいわゆるひとつの謎である。「投票しなかった」という権利の不行使が、「住民税未納」という義務不履行と並列されて、ともに「疑惑」として報道されることの奇妙さ。投票しないやつは立候補する資格がない、とでもいう理由があるのだろうか。
 今回の件にかぎらず、選挙のたびに有識者やら行政(選挙管理委員会)やらが、「有権者のみなさん、投票に行きましょう」などと呼びかけるものだが、あれも考えてみれば不思議である。もしかりに、たとえば公明党の支持者が「選挙に行きましょうね。そのさいは、ウチの候補をよろしく!」などと言うのであれば、それはわかる。しかし、そういうふうに特定の政党や候補者への投票を呼びかけるでもなく、漠然と、とにかく投票に行こう、行きましょう、ぜひ政治の場に私たちの意思を反映させましょう、などと訴えるのは、どういう理由あってのことなのだろうか。
 選挙は、オリンピックのごとく、「参加することに意義がある」なのか。おそらく、そうなのだ。結果的に勝者に投票することになった有権者と、敗者に投票した有権者、いずれにとっても選挙など「信任投票」でしかないのである。
 毎度アメリカの大統領選挙では、敗北した候補者が新大統領の誕生を電話で祝福する茶番が演じられるのが恒例になっているが、あれが選挙の本質ではなかろうか。すなわち、選挙とは、それがすべてとは言わないにせよ、「はい、民意を問うた結果ですからね」と首長なり議員なりの正統性を誇示するセレモニーである面が大きい。
 だから、「選挙にも行かない人が政治に不満を言うのはおかしい」などと言う者があとを絶たず、また候補者が「投票権を行使しなかった」ことが奇妙にもバッシングの対象になるのだ。彼らが言うのは、「きみらは国家からありがたくも一票を投じる権利をいただいているのだから、そいつを行使したらつべこべ言わずに黙ってろ」ということだ。原則として投票以外の政治参加の手段(革命もふくめて)は認めない、これが「みなさん投票に行きましょう」の意味である。
 ニヤついた敗者が勝者に祝福を表し国民に団結を訴える米国とは対照的に、政情不安のある国では、しばしば選挙後に敗者が選挙結果の無効を主張して揉める。いわく、開票作業に不正があった、さらに勝者の候補者が有権者を買収していた、与党関係者による投票妨害もあった、したがって今回の選挙は無効である、と。日本の弱小政党もこういういさぎよい態度を見習うべきである(何年か前の国政選挙で、共産党の幹部たちが口をそろえて「私たちが負けたのは、マスコミの報道が公正でなかったせいだ」みたいなことを言っていて、これに私は好感をもった)。それにひきくらべ、選挙で負けたくせに選挙の正当性を認め、国会議員になれなかったくせに国会の権威を受け入れるなど、未練たらしく、またいさぎよくない態度である。
 とくに、自民党公明党民主党以外に投票する有権者のうち大部分にとって、今回の参議院選挙もみずからの意思表示が「民意」なるものとほとんど無関係であることを確認する機会になるだろう。ああ、今回もまた私の票は死票になった、と。
 敗北した候補者は、あなたに死票を投じた幽霊たちの代表として、国会議事堂にションベンでもひっかけてくるのがスジというものである。
 なんてことを言ったら言いすぎだろうか。まあ、言いすぎだろうね。いつも言いすぎちゃうのよ。