「図らずも」――当て字はなぜ忌避されるのか?

 漱石さんがよく使いますけど*1、「不図(ふと)」は当て字としてうまくできているよなあ、と思う。漢語としての意味と和語としての意味がぴったり、とまでいかないまでも、うまいこと重なっている。
 しかし、思うにこれは「当て字」なんだろうか。「当て字」だという判断は、音が字に先行している、つまり「ふと」という和語がまずあって、これに「不図」という字を後から「当てた」のだとみなすことである。でも、この順序が逆だということは考えられないのだろうか。
 東北地方に「なんじょだ」という言葉がある。以前書いたように、これは漢文の「何如(いかん/ナンジョ)」に由来する言葉で、文字どおり「どんなだ」と様子・状態をたずねるのに用いられる*2。この「なんじょだ」は、漢語が音声言語に先行する例だ。
 同じように「ふと」という副詞も、じつは「不図」の字が先ではないのか、と考えるとおもしろいような気がする。
 もっとも、この考えはおそらく「事実」に反するのであろう。広辞苑も「不図」は「当て字」としているし、ということは、語の系譜をたどれば「ふと」が「不図」に先行しているのだろうと思われる。
 けれども、この「系譜をたどる」という方法によって見いだされるような「事実」が、私はどうも気にくわないのである。(1)文献として残されている、(2)「日本語」と近代においてカテゴライズされた資料のなかに出てくる、(3)より古い用例に権威を与える、という方法によるかぎりば、なるほど「不図」は「本来」の表記からはずれた「当て字」とみなされるのだろう。だが、「日本語」あるいは「国語」なるものの時間的・空間的同一性を留保して、言葉が書かれ読まれ、また話され聞かれるミクロな場に目を向けるなら、そのような直線的・一方向的なとらえ方はできないのではないか。「不図」という文字が「ふと」という和語への「当て字」として書かれることもあれば、逆に「ふと」という音が「不図」という漢語の音読みとして発語されることも、書き手や話し手(あるいは読み手や聞き手)の意識においてありうるはずなのだ。「ふと」と「不図」のどちらが先行するのかということは、コミュニケーションの場によって変わってくるのであって、一義的に決めることはできない。
 いつからそうなったのか、知らないのだけれど、規範的な「国語」において、「当て字」は忌避されている。新聞でも「当て字」が使われることはないようだし、国語教育でも「当て字」は排除されている。まるで、「国語」には和語起源の表現か、漢語起源の表現か、漢語以外の外国語起源の外来語の3通りしかなく、また「国語」の属するかぎりどんな語もこの3通りのいずれかのルーツに還元できるかのように。
 「言葉はリニアにルーツをさかのぼることができるものだ」というイデオロギーのもとで、「当て字」はなにか卑猥な色合いをおびてしまう。こうした「当て字」の位置づけは、「非嫡出子」が置かれた位置に似ているような気がする。おそらく、「非嫡出子」の位置が「日本人」というフィクションとの関係でとらえられるべきなのと同様、「当て字」は「国語」というフィクションとの関係において考えなければならないように思われる。よくわかんないけど。

*1:というか、そもそも彼が発明したのだろうか?

*2:今気づいたんだけど、古語の「なでふ」(なじょう)も、同じ由来? てっきり「何ていふ→なでふ」だと思っていたけど、もしかして「何如→なでふ(ナジョウ)→何ていふ」とも考えられないだろうか? むろん妄想の域は出ない、というか、まさかそんなわけがないだろうよという話だけど。