なして俺さ訊くの?

 くたくたに疲れた帰りの電車でウトウトしていたら、ふと小学1年か2年の頃の記憶がよみがえってきた。小学時代を通して仲のよかったJ君という同級生がいたのだが、彼はある日教室で先生に指されたとき、こう言ったのだ。「先生、答え自分で分かってんだべ。なして俺さ訊くの?」
 J君はこのとき泣きべそをかいていた。先生がどんな反応をしたのかは思い出せない。




 大学時代の知り合いにRという教育学部の男がいた。おたがい卒業して1年くらいたったある日、何かの飲み会でたまたま彼と居合わせたことがあった。Rは小学校教師になっていた。
 私にとって彼は非常に気に食わん奴で、それは彼にとっても同じだったのだろう。だから、ふだんはおたがいに会話を避けていたのだが、ひさしぶりに顔を合わせてしまったその席でRが「キレやすい子どもたちの共通点は親の愛情が欠けていることだ。学校で起こる問題の多くは親の愛情不足が原因だ」とかなんとか口走ったのを聞きとめた私は、つい頭に来て議論をふっかけてしまったのだった。
 そこで話した内容はもう忘れてしまったが、彼の受け答えのしかたはよく覚えている。私と、もうひとりいわゆる「複雑な家庭」で育った私の友人が怒って問いつめるのに対し、Rはまともには答えず、つねに「○○についてもっとよく考えてみろよ。どうだろう?」とばかり言うのだった。「どうだろう?」「どうだろう?」「どうだろう?」……。
 きっとRは教室でもこの調子なのだろう。「さあ、今日は○○について考えてみましょう。鈴木君どう? う〜ん、もっとね、△△を考えないとダメなんじゃない? もう一回答えてごらん。どう、鈴木君?」

 第2に、「教える−学ぶ」という関係を、権力関係と混同してはならない。実際、われわれが命令するためには、そのことが教えられていなければならない。われわれは赤ん坊に対して支配者であるよりも、その奴隷である。つまり、「教える」立場は、普通そう考えられているのとは逆に、けっして優位にあるのではない。むしろ、それは逆に、「学ぶ」側の合意を必要とし、その恣意に従属せざるをえない弱い立場だというべきである。
柄谷行人『探究 I 』asin:4061590154


 現実には、多くの教師は柄谷の言う意味での「『教える』立場」から逃走しようとするのだろう。というより、教師は学校の(あるいは塾や予備校の)教師であるかぎり、――程度の差こそあれ――「『教える』立場」から逃走せざるをえない。教師が「威圧的」にふるまおうが「民主的」にふるまおうが、そんなことはまったく本質的でない。