ナショナリストの悲哀

 今朝の読売の社説は、マジ泣ける。チョー泣ける。男になりたくて男になれない男の悲哀が感ぜられ、涙なしに読めない味わい深い文章である。


ヒロシマ 原爆の罪と核抑止力のジレンマ(8月6日付・読売社説)→魚拓


 以下引用した箇所から明らかなように、この社説の文体は奥歯に物がはさまったがごとくで、はっきりしない。この歯切れの悪い語りを、どう理解したらよいのだろうか。

(A)20万人以上の無辜(むこ)の民の命を奪った広島、長崎への原爆投下は、日本として決して容認することはできない。
(B)だが、米国内には、原爆投下を肯定する意見が根強くある。原爆の投下が、戦争終結を促し、日本本土侵攻作戦を回避した結果、多数の米軍兵士の命を救ったというのである。
(C)しかし、米国は、日本の継戦能力の喪失を認識していながら、事前警告もせずに残虐な核兵器を使用した。
(D)原爆投下には、ソ連の参戦を阻止する狙いがあり、米国内にそれを裏付ける証言も残されている。
[各パラグラフに付した(A)〜(D)の記号、および強調は引用者による]


 (A)では、ほかならぬ「人間」(言うまでもなく、ここには朝鮮人をはじめ植民地出身者が含まれる)に対する攻撃である原爆投下を、「日本」なる国家の被害へと矮小化している点でまず看過しがたいのだが、ここではそれは措くとしよう。「被爆」という日本の位置づけは、「反核」を唱える人たちの一部にも共有されている認識で、こういったことを口走るのは、右派であるか左派であるかに関わらず、みずからの狭隘なナショナリズムを表明しているにすぎない。しかし、今回はそれをこれ以上問題にすることは避ける。
 まあ、(A)はナショナリストの主張として理解できる。「日本」が米国の投下した原爆によって傷つけられた、だから「日本として」容認できない。
 ところが、問題は「だが」という逆接によって接続された(B)のパラグラフである。なんだろう、この不自然さは。どうしてナショナリストたる読売が、寛容にも「米国内」における原爆肯定の意見を紹介するのだろうかという疑問もさることながら、あたかも「無辜の民の命を奪った広島、長崎への原爆投下」が条件しだいでは容認しうるかのように――しかもその「条件」とは「多数の米軍兵士の命を救った」という、米国民の都合にすぎぬものなのだ――書くのは、ナショナリストにあるまじき日本国民に対する裏切りなのではないだろうか。
 まあ、百歩譲ってこれもよしとしよう。この(B)で引かれる「米国内」の意見に対し、続く(C)で反論らしきものを一応展開しようとしている形跡が、読みとれないこともないからだ。しかし、(C)は、先の(A)におけるナショナリストとしての勇ましい米国批判からは、後退している。というより、あからさまに論点をずらしている。(A)では米軍が「無辜の民」を攻撃の標的にしたこと自体を非難していたはずなのに、(C)では「日本の継戦能力の喪失を認識していながら、事前警告もせずに」核兵器を使用したという、たんなる手続き上の問題へと論点がすりかわっている。しかも、(C)は「米国は……使用した」というふうに、事実関係をたんに叙述する文体で語られており、(A)のパラグラフには書き込まれていた「決して容認することはできない」というような、米国に直接さし向けられた非難の言明は回避されている。
 それどころか、一応は米国の核兵器使用のあり方を問題にしているとも読めなくはない(C)に対し、(D)では、これをわざわざ中和するどころか、「無辜の民」を狙った原爆投下を正当化しようとするかのような文を置いている。北日本ソ連に占領されていたかもしれない可能性を考えれば、米国によって広島・長崎に原爆が投下されたことのほうがよりマシだったとでも言うのだろうか。驚くべき腰の引け方であり、ほとんど国辱ものの態度と言うべきであろう。
 こういったナショナリスト読売の腰抜けぶりは、いま問題にしてきた4つのパラグラフの直後にもあらわれている。

 民主党の小沢代表は、参院選公示前の党首討論で、原爆投下について、米国に謝罪を求めるよう安倍首相に迫った。首相は、北朝鮮の核の脅威に対抗するためには、「核の抑止力を必要としている現実もある」と答えた。
 原爆投下は肯定できない。他方、日本は、国の安全保障を米国の核抑止力に頼らざるをえない。これは、戦後日本が背負い続けている“ジレンマ”である。


 はたして、本当にこれは「ジレンマ」なのだろうか。ここにもあからさまなゴマカシがある。「ジレンマ」などと嘘をつくなよ、と思う。安倍晋三といい読売の社説といい、意識的かどうか知らないが、「核抑止力」という言葉の使い方が明らかにおかしいのである。
 「核抑止力」とは、すくなくとも私の理解によれば、対立関係にある諸国家が核を「保有」し牽制し合うことによって、その「使用」が抑止されるというロジックであるはずだ。つまり、「使用」を抑止するためにそれを「保有」するのであるから、核兵器保有ならびに配備そのものは正当である、というのが「核抑止力」という考え方の帰結として導き出されるはずなのである。
 したがって、安倍が言うごとき「核の抑止力を必要としている現実」は、米国による広島・長崎への原爆攻撃を「日本として」肯定しないということと、なんら矛盾しないのである。広島・長崎への核の「使用」は「核抑止力」の理念(?)からあきらかに逸脱しているのだから、安倍も読売新聞も、米国に対し「日本として」遠慮なく謝罪を要求したらよかろう。なぜそうしないのか。
 ついでに申せば、「核抑止力」の考えに立つならば、日本が核兵器を「保有」することにも正当性を主張できるはずだ。もっと言えば、北朝鮮が核を「保有」する正当性も認めなければならない。たがいに「保有」しあうことによって、「使用」が抑止されるというのだから、金正日将軍にも核を持ってもらえばよい。むしろ、ぜひとも北朝鮮に核を「保有」してもらわなくては、東アジアの軍事的均衡は保たれない、と言うべきなのである。
 こう考えてみると、「原爆投下は肯定できない。他方、日本は、国の安全保障を米国の核抑止力に頼らざるをえない」という読売の言う「ジレンマ」なるものは、端的に言って「嘘」「ゴマカシ」だということが分かる。
 かれらナショナリストにとってのジレンマとは、正しくはこうである。すなわち「われわれ日本も男性性の象徴たる核兵器保有して、自立・独立した男になりたいんだけど、米国が許してくれないのでボクは男になれない、チクショー」というものである。ナショナリスト諸君は、米国に去勢されているのだから、米国に向かって「われわれも核武装して男になるぜ」と言えばよいのである。でも、チキンなかれらは、そう言えない。だから、「北朝鮮の核の脅威」なるものを捏造して、大威張りでギャーギャー騒ぐのである。
 金将軍も、こういうバカな日本の男根崇拝主義者どもを手玉にとるのは本当は簡単なはずだと私は思うのだけれど、将軍も男根崇拝主義者っぽいからなあ。もっとうまくやれよ。
 わが敬愛する金正日同志よ、チンポに固執するな、と言いたい。