他人の評価

 疲れた。なんてことばかり最近ここに書いているのだが、今日はとくに疲れた。
 今日は仕事がうまくいかなかった。こんなにうまくいかないのは2年半ぶりぐらいだというぐらい、今日はうまくいかなかった。
 で、うまくいったり反対にうまくいかなかったりということは、自分自身の自覚としてなされる以前に、他人からの評価として表われてしまうんであるが、これがなかなかしんどいのである。順調にいっている間は「おれってすげぇじゃん、エへへ」みたいな感じで不遜な自己イメージが馬鹿みたいに肥大しているのであるが、そういうのって思いっきし他者による評価に依存しているわけで、なにかの拍子にその評価がひっくり返ってしまえば、気分は奈落の底に落ち込んでしまうわけである。ほんとうに、くだらないことであるけど。
 そういうときというのは、ふだん隠蔽している自身の攻撃性というのがふつふつとわき上がってくるもので、今そいつを持て余しているところだ。嫌韓とか嫌中とかの連中が自分の外側に仮想的を作り出してぎゃあぎゃあわめく心理もよく分かってしまうし、アルコールがそういった攻撃性を自分自身に向ける、いわば自傷(ささやかであれど)の手段として「効く」、ということも、実感できる。「痛飲」とはよく言ったものである。
 ビッグコミック・スピリッツに『ラスト・イニング』という高校野球マンガがある。主人公は、詐欺師の過去をもつ野球部監督で、彼は戦略を駆使する「知将」として、弱小チームを甲子園に出場するほどの強豪校へと育て上げていくというのが、ストーリーのあらましである。
 今週の話は、けっこう身にしみた。ライバル校のエースが、鋭いスライダーを武器にする自信たっぷりのピッチャーなのだが、彼は主人公の罠にはまっちゃうのである。つまり、スライダーは全部見送るという主人公チームの戦略によって、彼は「あれ? おれのスライダー、余裕で見逃されてるじゃん。なんで空振りしねえんだよ。もしかして今日はキレてない?」と疑心暗鬼になってしまうのである。実際は、スライダーのキレはよいのだし、相手打線をほぼパーフェクトに抑えているのに、である。そんで、配球をストレート中心に組み替えろ、とキャッチャーに指示を出すところで、今週の回は終わったんだけど、ああ、来週ボカスカに打ち込まれるんだろうなあ、と予想され、それが他人事ではないものだから、ああ、つらいよ。と思いました。
 他人の評価というやつ(このピッチャーにとっては、相手打者がすっかんすっかん空振りする、というのが他者による気持ちよい評価なわけですね)は麻薬のようなもので、順調なときは鼻先に吊り下げられたニンジンのように労働意欲をかきたてるエサとして機能するのだが、ちょいとしくじると、どん底に真っ逆さまに突き落としやがるのだ。
 だから、今現在のわたくしの気持ちとしては、ちょうど2年半くらい前にも同じことを書いた記憶があるのであるが、仏師になりたい、というものである。仏師こそがわたしの理想の職業である。仏、という超越的なものであり、かつ自分自身でもあるところのものとひたすら向き合い、仕事をしたいものである。こんなことを言うと、仏師からナメたこと言うなコラと怒られそうだけど。出家したいというかなんというか。まあ参った。