開高健のナントカという小説

 上で引用した記事を読んでおぼえた不思議な感覚から、なぜか昔読んだ開高健の小説を思い出した。タイトルは覚えていないし、今晩も酔っぱらっていて本棚をあさる気力がないので調べることはしないが、妙に記憶に残っている作品だ。たしか「隆亡記」だか「興亡記」だか「衰亡記」だか、そんな感じのタイトルの短編だったと記憶する。始皇帝時代の中国を舞台に設定していると思われるのだが、固有名詞のいっさい出てこない作品だった。だから、「始皇帝」とか「中国」とかといった、時代と場所を特定する記述はまったくない。
 主人公の名も作中で与えられていない。城壁に囲まれた街に住む貧しい男が、ある日皇帝の官吏によってとつぜん捕えられ、故郷の街から連行され、長城の建設と修復のために膨大な数の者とともに、過酷で単調な労役を課される、というような話。人夫たちは頻繁に配置転換のために移動させられ、また果てしない規模にわたる長城の各所に個別かつランダムに移動させられるために、ある場所で見知った人夫とべつの場所で再会することはまずない。人夫たちはただただ各所で与えられた労役を受動的にこなすよりほかないし、人夫どうしが主体的に自分たちを組織化することもありえない。特定の他者との継続的な関わりをもつ可能性が排除されているわけだから、かれらが固有名をもった者として自分の「意思」を持つことなど起こりえないのだ。
 そんな感じの空気というか匂いが延々と描写される小説だったと思うのだが、これが妙にリアリティがあって気持ちが悪いのだ。
 主人公の彼が、生まれた街から連行される場面。官吏たちがある日やって来て、そのひとりが縄をもって通りを走り抜け、街を2つに分割する。街の者たちが唖然としていると、1本の縄に分かたれた片側の区域にたまたまその時点でいた住人は、通りを歩いていようが家の中にいようが、すべて武装した官吏たちに引っ捕らえられて広場に並ばされる。縄の反対側にいた者たちに対しては、官吏たちは目もくれない。身の危険を察知して縄をくぐって安全そうな側に逃れようとする者は、容赦なく斬り殺される。
 縄がどういう根拠で引かれるのか、街の住人にとって知るすべはないし、そもそも官吏たちにとっては線を引くことと捕えるべき住人のおおよその頭数だけが重要なのだから、だれをどういう根拠にもとづいて選定するかなんてことは、はなから考える必要がないのだ。


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