文学部出身者の「学士力」

 早く涼しくならないかな。なんかまだ微妙に暑いんで、ビールがおいしすぎる。このままだとアル中になってしまう。
 週に一度の瓶缶の回収日に、近所のおばさんに「ずいぶん飲んだのねぇ。ひとりで飲んだの?」などと聞かれ、「いや、先週ゴミ出し忘れたんで2週間ぶんなんです。あと友達が来たし」なんてウソをついている自分も哀しい。つうか、透明ゴミ袋の義務づけは勘弁してほしいものだ。さすがにキリンラガーの空き缶ばかり20個詰まった袋を持って、ゴミ収集所まで歩くのは恥ずかしい。1日あたりに換算すればたいした量じゃないのに、1週間ぶん貯めるとまるで俺が呑んべえみたいに見えちゃうじゃんかよ。
 さて、哀しい新聞記事を見つけた。


YOMIURI ONLINE - 学士力を中教審が定義 大学卒業に厳格な認定試験も(→ウェブ魚拓)


 中央教育審議会文部科学相の諮問機関)の大学分科会小委員会は10日、大学卒業までに学生が最低限身に着けなければならない能力を「学士力(仮称)」と定義し、国として具体的に示す素案をまとめた。
 えり好みさえしなければ誰でも大学に入れる「大学全入時代」の到来を控え、「大卒者(学士)」の質を維持する狙いがある。各大学に対しても、安易に学生を卒業させることのないよう、卒業認定試験の実施など、厳格なチェックを求める。


 「全入時代」をむかえても、大卒資格の差別機能をちゃんと維持できるようにと、中教審も必死だね。インフレ防止策かねえ。
 全入時代に突入すると、かえって大学入学志望者が減るというおそれもあるのかもしれない。「えり好みしなければ誰でも大学に入れる」とはいえ、大学ごとの「ランク」の序列は依然としてあるわけで、すると下の「ランク」(って、もったいぶってカギカッコなんかつけるのもイヤらしいけどさ)に位置づけられた大学に入っちゃうのは、かえってリスキーでもあって、合理的な判断として「へたな大学」(また偽善的にカギカッコ)に入るよりは高校出てすぐ就職した方が得だよね、という選択をする人も多くなるんじゃないかなあ、と思っていたのだ。文部科学省的にはそういうのに手を打っておきましょ、というわけで「卒業認定試験」なんてものを持ち出したのかしらね。学士を現状の修士や博士みたいにしてはまずい、つぶれる大学がいっぱい出てくるぞ、と。まあ、もはや何をやっても焼け石に水でしょうし、文科省の役人としても、漢検みたいな利権のネタがもうひとつ増えりゃうれしいね、ぐらいにしか考えてないのかもしれないけど。
 それはともかく、その「学士力」とやらの内容を見て、いまやゴリラのように絶滅の危機に瀕している愛すべき文学部やそれに類する学部にとっては、その存在意義を否定(もうとっくに否定されているのかもしらんけど)するものだなあ、と哀愁の念に駆られたのだ。
 記事で紹介されている「『学士力』の主な項目」とは、以下のようなもの。

 【知識】
 ▽異文化の理解
  外国などの文化を理解する
 ▽社会情勢や自然、文化への理解
  人類の文化や社会情勢などを理解する


 私が学生時代に読んで感銘を受けたのは、「文化」(や「文明」)という概念のイデオロギー性にこだわり続けながらフランス革命史を論じる比較文化論の研究者や、「文化/自然」という二分法への疑念を隠しきれない文化人類学者の文章であった。
 「外国などの文化を理解する」だと? どうせそれは「自国」の「文化」を「理解」するための媒介としてなんだろ? そりゃ青○保とかそのたぐいが儲かってよござんすね。

 ▽コミュニケーション能力
  日本語、特定の外国語で読み、書き、聞き、話すことが出来る


 「日本語」と「特定の外国語」には私の祖父母や故郷の人々が話すエミシの言語も含まれないのだろうし、コックニー・イングリッシュやウェールズアイルランドの人が話し歌う英語も除外されるのだろうし、ウチナーグチも入らないのだろう。
 しかも「コミュニケーション能力」だってよ。私のかつて在籍した学部には、ボソボソ声でけっして前を見ずに黒板に向かって激しくどもりながら講義する先生もいて、彼の話している内容はよく理解できなかったが、そんな、ものを考えるということのひとつのあり方に強い印象をいだいたのは、バカな自分にとって大学に行ってよかったと思える大きな理由のひとつ(ギターが弾けるようになったことの次に)である。

 【技能】
(中略)
 ▽チームワーク、リーダーシップ
  他者と協力して行動したり、目標実現のために方向性を示せる


 端的にくだらない。「目標」は所与の前提なのか? 

 ▽倫理観
  自分の良心や社会のルールに従って、行動できる


 「自分の良心」と「社会のルール」を平気で並列する感覚が、私にしてみれば愚劣としか言いようがない。この両者をいかに腑分けしうるのかという問題など、中教審の連中にとっては一顧だにする価値がないということなのだろう。