殺人の条件

 どうやったら人をぶっ殺せるんだろうか。ということを、寝入りばななどによく考えることがある。
 とくに、兵士の殺人を可能にする条件とは何なのだろうか、ということ。まあ、ありふれた解答としては、「敵」を醜悪かつみずからに対する脅威として表象することによって、近親者に対してはけっして振るえないような残虐な暴力が可能になるのだということが考えられる。しかし、愚かなる安倍晋三みたいに「美しい国」の同胞の外部に「恐るべき忌まわしき敵」を表象しえたとしても、いざ戦場に出向いて、自分とおなじ「人間の形」をした他者に出会ってしまったとき、その人を殺すことはできるのだろうか。
 「同情」「共感」という感情は、近親者よりもむしろ遠くの他者に対して起きやすいように思う。身近な人間を思いやることはとても難しいように思えるのだが、かえって距離のある他者に感情移入することは容易だ。感情移入するためには、相手はいったん対象化されていなければならないが、身近な人はそうやって距離をとることが困難だから、共感の対象にはなりにくいのではないか。一方、向こうから歩いてくる相手が見も知らぬひと人であっても、その人が「人間の形」をしているならば、私はその人の生活や感情の存在を――もちろん「理解できる」とは言わないけれど――たちどころに想像してしまうように思うのだ。
 ここ1週間ぐらい、通勤の電車のなかでルネ・ジラールという人の本を読んでいるのだけど、彼はこんなことを言っている。

 原始的宗教においてもギリシャ悲劇においても、常に暗黙のうちに、しかし根本的な同一の原理が働いている。秩序と平和と豊饒は、文化的なさまざまな差異に依拠しているのである。同一の家族あるいは同一の社会の人間同士の間に、気違いじみた敵対関係、無制限な争いをひきおこすのは、差異ではなくて、差異の消失なのである
 現代世界は人間同士の平等を熱望し、たとえ差異が個人の経済的社会的身分と何ら関係のない場合でも、差異の中に、人間同士の調和を乱す多くの障害を本能的に見ようとする傾向がある。
 こうした現代的理想は、明白な原理の段階以上に、しばしば、無意識的な習慣の段階に関する民族学的観察に影響を及ぼすのである。*1


 差異の創出が暴力を可能にする(あるいは加速する)という見方は、現代的な先入観であって、むしろ差異の消失が暴力の条件なのだというジラールの考えは、直観的には妥当であるように思える。もっとも、この人が言わんとするのは、「差異の消失が暴力を呼び込む」ということなのか、それとも「暴力の応酬(再現のない報復の連鎖)が差異を消失させる」ということなのか、どっちに読める記述もそれぞれあって、判然としないので頭を抱えているところなのだけど。
 そんなことが頭んなかにあって、昨夜床に入ってから以前読んだ森毅のエッセイを読みなおしていたら、彼は他者との距離の喪失に暴力の条件のひとつを見ているようであった。森さんは、旧日本軍に上官にいじめられて自殺する兵士が多かったことについて、「自分を殺す前に、どうしてその憎い上官を殺さぬのか」という疑問から、この文章を書き出している。彼の仮説は、他人を殺すにはパワーが要るのに比べ、自分を殺すのはむしろ楽なのではないか、というものだ。これも直観的によく分かる考え方だと思った。
 思わずわき出てくる憎悪の念、暴力への衝動というものも、やはりエネルギーのようなものであって、それは「出口」を探すのだ。水流が、放出しやすい「穴」を探し出すように、暴力もまた手近な「捌け口」をみずから(おのずから?)見つけだす。出やすいところが見つかれば、ただちにそこから噴出しようとするのだ。
 森氏が言うとおり、自殺や親殺し、または心中は、「距離が近いから可能になる」のだという気がする。

 つまり、夫婦にしても親子にしても、異質性を一体性と幻想させる装置である。そして家庭幻想のゆえにその距離をゼロに近づける。おそろしいことは、このゼロに近い距離感は、ときに殺人を容易にする。心中というのは、相手を他人と思わぬことで可能になる。心中でない殺人だって、それが家庭内で生じうるのは、むしろ一体感のゆえではないだろうか。*2


 しかし、私がちょっとひっかかるのは、森氏が直後でこう述べていることである。

 もう一つ、殺人が容易になる場合がある。それは戦争である。これは逆に、敵との距離を無限大にすることによって可能になる。自分と限りなく遠い人間なら殺せそうな気がする。自分を基準にする限り、彼はもはや人間ではないだから。


 戦争は、親殺しや心中、自殺と「逆」の「もう一つ」の理屈によって説明されるべきことなのだろうか。むしろ、この四者を統一的な理論で説明できないだろうか、ということを考えてしまう。
 というのも、「もはや人間ではない」者を殺すのは、案外と難しいように思われるからだ。国家は兵士を訓練するのに、「敵」がいかに「人間」の理の通じぬ「怪物」であるかを吹き込もうとするだろう。しかし、現実に戦場に立たされる兵士は、どうしたって「人間」に出会ってしまうのではないだろうか。おそらく「敵」の「異形さ」を吹きこむだけでは、まだ彼を戦わせるには足りないのではないか*3
 むしろ、自他の境界が溶解するところでこそ、憤激はいとも容易に爆発するように思われる。怒りという感情、攻撃性のマグマは、近親者、あるいは自分自身に向かって「出口」を見いだすというのが、私のせまい経験則からはピンとくる。
 こうした文脈で靖国なり特攻を考えないと、そのおそろしさを十分に理解しえないような気がする。靖国も特攻も、「敵」との戦いに「自殺」という要素を組み込んでいる。あの同時多発攻撃もまた、「敵」に対する攻撃であると同時に、「自分自身」に対する攻撃を含んでいた。後者が前者を可能にする条件なのだと考えてみることはできないだろうか。

*1:ルネ・ジラール『暴力と聖なるもの』80頁asin:4588001159

*2:森毅『「頭ひとつ」でうまくいく』三笠書房185-6頁

*3:まるで鏡を見ているかのように、相手が私と同じように銃を構えているのをみとめたなら、私は怒りと恐怖を暴発させて、引き金をひくのをためらわないかもしれない。しかし、そこにおいて起こっているのは森氏の言う「敵との距離を無限大にすること」とは逆の事態ではないのだろうか。