キュビスム?

 今晩はややしらふ。

asahi.com - 安倍首相欠席に「失望」 気候変動会合で国連事務総長


 記事の内容には何の関心もないのだけど。表現の些末なところが気になった。

 気候変動ハイレベル会合には、世界の首脳約80人を含む150人以上の代表が出席する見通し。ブッシュ米大統領温室効果ガスの主要排出国の首脳らが集まる夕食会合に出席する。サルコジ仏大統領、メルケル独首相らも顔をそろえる中、日本の存在感の薄さ際立ちそうだ。


 「存在感の薄さ」というのは "目立たない" ってことであって、なのに「際立ち」って、それ "目立つ" ゆうことじゃんかよー。どっちなんだよー、おかしいじゃねえかよ。
 というふうに思ってしまう私の方が、偏執的なのかなあ、とも思う。というのも、書き手が「日本の存在感の薄さが際立ちそうだ」という文で言わんとすることは、まあ、よく分かるのだから。すぐに揚げ足取ろうとする私のほうが、どうかしているのかもしれない。
 書き手は一方で、会合に出席する「世界」の首脳やら取材にやってくる「世界」*1のジャーナリストたちの目に映る「日本」の見え方を想像的に先取りして、そこに「日本の存在感の薄さ」を見て取り、他方で同時に彼/彼女自身の「日本」に属する記者としての視点からはその「日本」のテイタラクはゆゆしき事態なのであるから、「存在感の薄さ」というまさにそのことが「際立って」見えているのであろう。
 日常的に私たちがしゃべったり、何の気なしにブログなどに書きつけている言葉というのは、たしかにこうした複数の視点から構成されるような立体性をもっているのであろう。ところが、身構えて文章を読んだり書いたりする場面においては、そういう視点の混在は「混乱」に見えてしまう。なんか「気持ち悪い」って感じちゃうのよね。


関連リンク- やねごんの日記 - 「足りない」では足りないのか?

*1:岩波の月刊誌のことじゃないよ