生活指導と身分制

 相撲協会に「生活指導部長」なんていう役職があるのを最近知って、学校みたいなところだなあ、と思っていたところに、こんなニュースを読んだ。


asahi.com - ズボンずり下げたら禁固刑 米各地で「腰パン」禁止条例


 ヒップホッパー的にはどうなんだろうか。「おれ腰パンでムショにいたんだぜ」という経歴があると、ハクが付いて仲間から尊敬されちゃったりするんだろうか。
 それはともかく、学校みたいだ。
 私が中学生だった頃というのは、華やかなりし校内暴力ブームの絶頂が過ぎ去った後、ということになるらしいのだが、うちの学校は田舎だったせいか身のまわりに生徒間のケンカはあふれていたし、生徒が教師を殴打するということもたまにはあった。もっとも、教師が生徒を殴るほうが日常茶飯だったが*1
 また、当時、全国の中学校のほとんど冗談としか思えないような校則のすさまじさは、「管理教育」として新聞の連載になるくらいだったのだが、私の学校も例外ではなく、服装から休日の過ごし方にいたるまで細部にわたって定められていた。朝礼では、生活指導教諭だかいう教師を中心に生徒を見回るのだ。定規を持ってスカート丈を測り、前髪を引っ張って眉毛に届いていないかチェックし、カバンの厚さが規定(こんな規定もあったのだ!)より薄くないか見てまわるのである。
 当時うすうす感じていたし、今になってみればはっきり解るのは、こういった取締りは、違反者を矯正するためでもなく、また排除するためのものでもなかったのだということ。そもそも公立中学校という性格上、原理的に「排除」は不可能なのであるし、かといって、あまりに微細に設定された規則なだけに「遵守を徹底させる」などということも不可能なのだ。もし、教師が「遵守を徹底させる」あるいは「違反を許容しない」というつもりであったなら、膨大な数の、しかもほとんどが些末としか言いようのない校則を定めるのは合理的でない。むしろ、生活のすみずみにわたる校則の肥大化は、ひとつひとつの規則の価値を低下させ、違反を常態化させるのである。
 こうして、違反は、朝礼などのおりときとして取り締まられるものの、通学時をふくむ学校生活のほとんどの時間において事実上黙認されることになる。
 ではこの校則が秩序形成に機能していなかったかというと、事態はまったくの逆である。いわゆる「グレた生徒」だけでなく、過半数の生徒は多かれ少なかれ服装において校則違反者となるわけだが、その違反の度合いには人によって濃淡がある。大多数の生徒が違反する項目として、たとえば「カバンの厚さは10センチ*2より薄くしてはならない」というものがあった。厚いカバンじゃカッコワルイっていうんで、わたしらは革の学生カバンの芯を抜き、ぺっしゃんこにつぶして持って歩いたのである。このように違反者が多数を占めるような規則がある一方で、違反が少数派、すなわち「グレた生徒」の特権とみなされるような規則もある。ボンタンを履いたり、裏地に龍かなんかの刺繍の入った短ランを着たり、という生徒は全校で数えるほどしかいない。
 こうして、違反の度合いによって生徒は差異化されるわけだが、この可視化された差異はさらに「身分」のしるしとなるのである。華やかに逸脱を身にまとった「グレた生徒」は、校内を巡回しては、「あ? おめぇ、1年ッコのくせになにカバンつぶしてんだ? いい気になってんな」と因縁をつけてまわるのだ。言われる側からすれば、「ボンタン履いたお前に言われたくないよ」とも言い返したくなるものだが、恐いから「すいません」と謝りましたよ、私は。ともかくここでは、おもしろいことに、程度の激しい違反者が、自分より軽微な違反を取り締まるわけである。
 教師たちの側にどれだけ戦略と自覚があったのか知れないけれど、うまいこと仕組まれていたのだなあ、と感心する。教師は主観的には、違反を「無くそう」としていたのかもしれないが、仕組みとしてはけっしてそういうふうに機能するものではなかった。あの常軌を逸した校則の数々によって、教師たちは「グレた生徒」をみずからの管理のもとに置いたのだ。実際、校則を派手に違反してみせる「グレた生徒」たちは、頻繁に呼び出されては「生活指導」を受けていたので、他の生徒以上に教師と親密な関係を築いていたように思う。
 過剰な違反者としての「不良生徒」と取締り役の教師たちが――かれらの主観的意識はどうであれ――結託して作り上げていたのは、「違反が甚だしい生徒ほど上位に、違反が少ない、あるいは皆無な生徒ほど下位に位置づけられる」という形で可視化された、一種の身分制の秩序だったわけだ。こういう上下関係のはっきりした集団は、暴力が正当化されやすい(というのはもちろん「上」から「下」に向かう暴力に限ってのことだ)ので、教師にとってたいへん都合がよろしい。
 で、「腰パンは禁錮」だとか「路上喫煙には罰金を課す」だとか、些末かつ取締りの点でおよそ実効性の期待できない法をバンバンつくっていくと、どうなるのかなあと思う。こういう条例づくりを歓迎して、「ルールを守れ」とか「公衆道徳が乱れている」とか騒いでる善良でマジメで育ちのいい市民たちは、そのうち街を歩いていると腰パンヒップホッパーに因縁つけられる、これを警察もひそかに歓迎して黙認する、なんてことにならないかなあ。なったらおもしろいのになあ。「Hey YO! てめぇなに携帯でしゃべってんだ? 優先席の付近では電源切れってアナウンスしてるだろうが。おめぇいい気になってんだろ?」

*1:以下私信。《おい、加賀谷、小野、読んでるか? 俺はあんたらが腹いせにぶん殴った数百人(数千人?)のうちのひとりだぞ。ところで小野先生よ、いまでもPTAの会合で得意気にフルートの演奏聴かせてんのか? 俺のかあちゃんは「あの先生のフルートがまた下手でなあ。まんず、聴くに堪えねえったりゃありゃしない」と言ってたぞ。》

*2:この数字についての記憶はあいまいだけれども。