人類の5大発明

 あ〜、またおもしろいことやってる。私も便乗しちゃおう。


after game over - 人類の発明品ベスト5&ワースト5


 「金」が「人生をゼロサムゲームにするやっかいな呪い」だというのは、まさにそう思う。私たちが何かにつけ「他人に迷惑かけちゃいけない」と身を縮こまらせて生きていかざるをえないのは、ひとつにはこの貨幣という魔物の存在が大きいのだろうなという気がする。
 さて、「ベスト」なのか「ワースト」なのか判然としないのだけど、ともかく私なりに考えてみた人類の5大発明。まあ、そういうのはこじつけでして、最近とりとめもなく考えていたことを、まとまらないながらも書き留めるのによいお題、というか口実を与えられたので便乗してみました、ということであります。「発明」というにはちょいとトンチンカンかもしれません。

1.車輪
2.競技
3.ピンと張ってポンと叩くもの
4.キムチチゲ
5.ビール


 車輪、というのがいつどこで誰によって発明されたのか知らない。初めて車輪が作られたとき、平らで傾斜の少ないまっすぐな、すなわち車を転がすのに適した道路はあったのだろうか。少しはあったかもしれない。にしてもほとんどなかったんじゃなかろうか。
 何が言いたいかというと、これはアイディアとしてかなりクレージーではなかったのかといういうこと。「目的意識がまずあって、次にこれを達成するのに最適な手段を考える」という私たちがふつう「合理的」と呼ぶ思考からでは、車輪という発想は出てきがたいと思われるからである。だって、重いものを遠くまで運びたい、ということなら、水上なら船に浮かべて流してやるとか、陸上ならロバや馬に載っけて引っ張っていくという手段が、おそらく考えうる「最適解」として既にあったはずなのだから。アスファルトで舗装された道路なんて当然ないわけで、デコボコ道ばかりの周囲を見回して、「軸に輪っか付けて転がしてみよう」なんて考えた人の気はちょっとはかり知れない。
 で、車輪を初めて作ったその人(たち)の目には、それまで「当たり前」であった曲がりくねったデコボコ道が、じゃまっけな「支障」に映りだしたのだろう。じゃあってんで、石を除け、木の根を引っこ抜き、やわらかい砂のかわりに石畳を敷き、というふうに道を均してしまったんであろう。なんたる狂気。
 ほかにも同種の例はあろうかと思われるが、「必要は発明の母」ならぬ「発明が必要の母」と言うべきおそるべき発明の象徴として「車輪」を挙げてみた。
 ちなみに、直線のコースをいかに速く走るかを競う徒競走のような競技は、人間サマがその道具であるはずの車の真似して必死こいて走っているわけで、考えてみれば滑稽なことでもある。


 2の「競技」は当然、特定の発明者がいるわけはなく、あらゆる社会がおそらくその発生と同時に有していたのだろうと思われる。相撲のような神事として始まった格闘技であれ、サイコロ等を使った賭け事であれ、また世俗化された近代のスポーツであれ、競技者は闘志満々、アドレナリンびゅんびゅんな状態で闘いにのぞむわけである。なのに、ふつう競技が血なまぐさい殺し合いに発展することはまずない。競技が白熱して尋常でない興奮状態に陥る、ということはプロ競技者でない私たちでも経験するところだけれど、そういう攻撃性は競技のなかにあっては不思議と枠づけられていて、暴走することがない。野球においてデッドボールが乱闘に発展したり、大相撲で力士どうしが熱くなって激しい張り手のかましあいをしたり、ということはあっても、球場なり土俵なりのなかにあっては、彼らはまず一線を越えない。これがどういうふうにして秩序だてられているのか、ほんとうに不思議なんだけど、ともかく度を越した争いを抑止する人間の偉大な知恵が詰まっているのであろうとは思う。その知恵を近代人は充分にいかせていないということなのだけど。


 3の「ピンと張ってポンと叩くもの」とは、太鼓や弦楽器のこと。動物の革をピンと張れば太鼓ができ、さらにそうして張った革に棹をつけてやはり弦をピンと引っ張って付ければ三味線や三線といった弦楽器ができる。
 音楽がどのようにして発生したのか、という問題はむろん実証できることではないだろうし、「これ」といった単数の起源を想定することができるものでもないのだろうとは思う。しかしすくなくとも、人間の身体に流れるリズムに、この「ピンと張ってポンと叩くもの」がもたらした影響の甚大さを想像することはできる。
 叩いた後にやや遅れてポワーンと弾むようにして返ってくる響き。この経験はあらゆる歌や踊りに先行するものなのではないか、というようなことを妄想したりする。ブルーズやラップを聴くと、弾む打楽器や打弦楽器を声によって模倣しようとするところに歌というものの発生の契機のひとつがあるということが確かなことのように思える。噺家のみごとな語りや、また直接的な音でなくとも心地よい文体にも、この「ピンと張って叩くもの」のたわんで跳ね返ってくる感覚を感受することはできる。そして、何より私たちは単調な反復のうちにある、それ自体は退屈にもなりうる単純労働に、弾むリズムを見つけだして体を動かすことができるのだ。


 4と5は、ほかに思いつかなかったので、おいしいものを。そろそろ寒くなってきたので食べたいなあというものと、いま現時点で飲んでるもの。