惑星チタマからの報告

 房の中を観察したところ、3通りの存在がいます。シュツダイシャとセンセイとセイトと呼ばれる3通りです。房には、センセイと呼ばれる存在が1体、セイトと呼ばれる存在が何十体か見えます。シュツダイシャという存在の姿を発見することはできませんでしたが、この者は「問いを立てる」役目を担っているようであります。センセイは、このシュツダイシャなる者の立てた「問い」を紹介し、さらに解釈する権限を有している模様です。うじゃうじゃいるセイトなる者たちの仕事は、シュツダイシャが立て、センセイが解釈した「問い」に答えることらしく見受けられます。
 シュツダイシャが立てたものとしてセンセイによってセイトたちに紹介される「問い」の意味は、しばしば曖昧で不明瞭で、あるいは難解であります。だから、センセイはセイトたちに向かって「問い」の意味を解釈する必要が生じるのでしょう。しかし、センセイもセイトたちも、「問い」の真意を問いただしたり、「問い」そのものの適切さについて議論したりすることが、私の観察した範囲では一度もありませんでした。「問い」の真意を問いただそうにもシュツダイシャはその場にいないわけですし、「問い」の適切さを議論しようにもセイトたちにその権限はなくセンセイにその意思はないようであります。
 ともかく、興味深いのは、このたびわれわれ探索隊の発見した知的生命体において、「問い」と「答え」が前者によって後者が必然的に規定される不可分一体のものとは考えられておらず、さらに問う役割の者と答える役割の者が截然と分離されているらしい、ということです。われわれにおいても、《問う者》と《答える者》の役割分担が便宜的に行われることは確かにありますが、われわれのそれが暫定的で流動的であるのに対し、今回観察しえたかぎりでの彼らのそれは、恒常的で固定的であるらしいのです。
 もっとも、われわれがこれまで発見し観察した惑星のいくつかにおきましても、《問う者》と《答える者》が分離された制度を持つ知的生命体の例がなかったわけではありません。ところが、これら既知の諸事例に対しチタマの生命体が特徴的と言えるのは、《問う者》の存在が見えないことであります。《答える者》の存在が発見できないというケースは、これまでにも多数報告されています。こうした生命体の場合、たとえば死した動物の骨や甲羅を火にくべたりなどしながら、目に見えない《答える者》に向かって、個体たちが集まって何ごとかを問うのであります。反対に、チタマの生命体は《問う者》が見えないのに、どこからか「問い」が運ばれてきて、個体たちが集まって「答え」を出そうとしているのです。この点でも、かれらは稀有な事例と言えましょう。
 報告は以上。探索を続けます。本探索隊のつぎなる課題は、シュツダイシャなる存在を発見し、可能ならばこれを捕獲・解剖することであります。