野球ファンの高齢化

 「星野ジャパン」と呼ばれて、星野監督や選手たちはどんな気分なんだろか。なぜ、「日本代表」じゃあダメなんでございましょうか。などということを眠たい頭で考える。
 たしかに、オリンピック予選を戦ったあのチームを「日本代表」と呼ぶのは、なんとなくそぐわない気もする。かれらは、日本のネーションの「代表」というより、むしろ職業野球球団から駆り集めてきた精鋭の集団なのである。みな年収何億もかせぐ野球エリートなのである。
 いっぽう、柔道や水泳の日本選手がオリンピックで目立った活躍をした場合、マスコミの報道は、選手たちがいかに「普通の人」なのか、ということを強調する。地元の商店街で選手の評判を聞いてまわり、選手の同僚や同級生にインタビューのマイクを向ける。「ああ、○○選手はよくいらっしゃいますよ。トンカツ定食をお召しになることが多いですねえ」「△△くんは□□というあだ名でいつも呼ばれてます」とか。活躍したあの選手はそこいらへんにいるようなフツーの若者のひとりであり、われわれ日本国民の代表なのだ、というわけだ。
 でも、すでに名をなしたプロ野球選手たちから成るあのチームは、日本というネーションを代表するとはみなされない。かれらはなにものかを代表するわけではないから、反対になにものかに代表してもらわなければならない。日本を代表する「日本代表」ではなくて、「星野」に代表してもらう「星野ジャパン」だ、ということなのだろうか。
 いや、ことはもっと単純なのかもしれない。野球なんぞに関心をもつのは、いまどきジジイぐらいのものなのだと。たんにそれだけの話なのかもしれない。
 チビッコがプロ野球に昂奮するのは、たとえばピッチャーの速い球、ストーンと落ちるフォークボール、びゅーんと遠くまで飛ぶ打球、などだ。「うわ、速えぞ」「見たか、あの打球!」「肩強ええなあ」。チビッコは単純だ。
 しかし、チビッコもものごころがついてくると、バッテリーの配球がどうのこうのだとか、イチローのバットコントロールがどうのこうのだとか、そういった口をきき始める。もっとオッサンくさくなると、選手の起用法がうんぬん、継投のタイミングが遅すぎるどうのこうのなど、絶望的につまらないことを言い出す。
 さらにオッサンも管理職につき、PHP文庫なんぞを読むころあいになると、「部下の人心を掌握する術」なんていう観点から、野球中継をながめるところまで堕落する。「ホシノはどうやって万年最下位のタイガースを強豪チームに育て上げたのか」とか、「ノムラはいかに選手たちの意識改革をすすめたか」とか、そんな目で野球をみるようになるのだ、たぶん。くそったれだね。くそったれだよ。
 「星野ジャパン」などという語を記事に並べる記者もクソジジイ、そんな新聞を買って読むのもクソジジイども。若者やチビッコたちは、野球なんか観ない。いまやキャッチボールをやったこともない、バットを振ったこともない少年だって全然めずらしくないのだろう。
 こうして野球ファンの少子高齢化が進んでゆけば、ゆくゆくは新聞に「渡邊ジャイアンツ」や「宮内オリックス」みたいな見出しが躍るようになるだろう。スポーツ新聞は野球には目もくれずサッカーと風俗の記事で埋まり、かわりに日経新聞が野球記事を一面に載せるようになるかもしれない。「リストラ断行の宮内オリックス球団、前年比収益3割増」とかね。おれは日経新聞もPHP文庫も読んだことない負け組なんで、知らんけどさ。