バイファム観た――「戦後」という時代認識の虚妄性について

ウィキペディア――銀河漂流バイファム
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 1983-84年の放送ということは、なんとまあ、もう四半世紀前のこと、当時ぼくは10歳くらい。あんまりアニメを熱心に観るということはなかったのだけど、この「バイファム」だけは例外で、毎回の放送を夢中になって観ていた記憶がある。
 機会があったらまた観たいなあと、ときどき思っていたんだけど、楽天でダウンロードできるのを最近知り、全46話、けっこうあっというまに観ちゃった。いい歳こいて、子ども向けアニメで何度も泣かされそうになっちまった。やっぱいい作品だった。
 話の筋は、上のウィキペディアに詳しく書かれているんだけど、ようするに宇宙版十五少年漂流記。近未来に地球人たちは何万光年だか離れた惑星に植民を開始するのだが、そこで異星人の攻撃を受ける。避難するおり、大人たちとわかれてしまった少年少女13人。宇宙船で力を合わせ、親たちに再会するための旅をする、という成長物語。
 巨大な人型ロボット兵器に乗りこんで、宇宙空間でガチャーン、バキューン、ドカーンと戦争するのだ。で、少年たちよ、バンダイのおもちゃ買いなさい。と、まあそういう番組。
 ただ、あらためて30歳すぎたおっさんの目で観てみると、あちらこちらに制作者たちの意地とポリシーがかいまみえて、おもしろかった。




 異星人が地球人入植者を宣戦布告なしで奇襲してくる、というところから物語が始まるのだが、話がすすむにつれて、この構図が徐々に反転してくる。話の展開とともにだんだんと明らかになってくるのは、地球人たちが入植をすすめていた惑星で、じつは異星人がすでに移住の準備に着手していたということ。そして、彼らはたびたび警告を発していたのだけれど、地球軍の上層部がその情報を極秘ににぎりつぶしていたということ。つまり、「敵」の奇襲を受けて「防衛」をしていたはずの地球軍が、じつは侵略者にほかならなかった、ということが明らかになってくるわけだ。
 こうして戦争の「大義」が、物語の進展とともにあやしくなっていき、戦う理由そのものが霧散していく。
 もっとも、バンダイのおもちゃを買わせるための番組だから、最後まで毎回のようにドンパチのシーンはあるのだけどね。
 ともかく、「味方」であったはずの地球軍の正当性がうたがわしくなっていき、その一方で物語の焦点は、「敵/味方」という二分法のもとからは「マージナル」な領域へと移っていく。
 まずそのひとつに、13人のなかのひとりである少女が、地球人に育てられた異星人だということが、ある異星人によって告げられるという展開がある。彼女は「敵」なのか「味方」なのか、という仲間たちや彼女本人の葛藤が物語前半の主題のひとつになっている。
 ふたつめは、漂流する13人の、異星人の反戦レジスタンスグループとの接触レジスタンスたちは、政府によって弾圧されていて、収容所なんかで強制労働をさせられている。かれらと接触するなかで、13人の少年少女たちは、鬼か悪魔のような存在だと思っていた異星人が「自分たちとたいして変わらない人間じゃないか!」と知り驚いたりする。
 みっつめに、ここにたぶん作り手の力がいちばん入ってるんじゃないかと思うけど、「敵」の政府軍のミューラァという隊長の存在。この人が登場するときだけ、きまったテーマ曲が流れるんだよ。なんか顔も全登場人物のなかで圧倒的にかっこよく描かれているし。
 かれは、地球人と異星人のあいだいに生まれた人で、それだけにみずからの体にながれる地球人の血をにくみ、戦績によってククト(というのが異星人の惑星)軍人としてのあかしをたてようとがんばってしまうのである。しかし、けっきょくは軍に裏切られるという悲劇の人。
 こうして、「敵」との戦闘シーンは毎回あるものの、物語の随所に「敵/味方」の二分法をゆすぶる仕掛けがうめこまれているわけである。
 作り手は、登場人物のひとりにこんなことを語らせてもいる。いわく「戦争の最大の悲劇は、ミューラァやカチュア(先述の、地球人に育てられたククト人の少女)のような状況を生み出してしまうことなのではないか」と。マクロのレベルで「敵」と「味方」のあいだにひかれた分割線が、ミクロなレベルでの人間関係や個々人の人格を分裂させ、破壊していく。そういうものとして戦争が描かれている。
 で、ぼくにとって興味ぶかいのは、この作品が80年代につくられた、ということの意味である。作り手たちは、時代的な文脈のなかで作品をつくっているはずで、とすると、かれらは同時代についてどんな認識をもっていたのだろうか。
 作品は終盤にむかうにつれ、「この戦争を終わらせなければならない」というメッセージを色濃く押し出していく。「この戦争」とは、いったいどこのどの戦争だろうか。「戦後」すら「終わった」などという言説がすでに人口に膾炙していた80年代において、「終わらせなければならない」と強い語調で語られなければならなかった「この戦争」とは、何を指しているのか。
 こんな疑問がうかぶのは、バイファムという作品をあらためて観てみると、「かつての悲惨な戦争をくり返すな!」ではなく、「いま起こっている戦争を終わらせなければならない!」というトーンがあきらかに強いのを感じるからだ。
 たとえば、物語の結末がそうだ。13人がみんなそろって地球に帰還する、というハッピーエンドではこの物語は終わらない。カチュアと、もうひとりの少年は、仲間たちから離れてククト星へむかうことを決意する。彼女は「ほんとうに戦争が終わるのかしら。このままみんなといっしょに地球に行ったら、わたしは永遠にほんとうの両親に会えなくなるかもしれない」と考え、仲間たちのもとを去っていく。つまり、「この戦争を終わらせることができるかどうか」という課題はあえて宙に浮かせた(あるいは、少年少女たちにあずける)かっこうで、物語が閉じられるのである。作り手に「戦争がまだ終わっていない」という現状認識がなければ、そして「まだ終わっていないこの戦争を終わらせなければならない」という問題意識がなくては、こういう結末はありえないのではないだろうか。
 これはまったくの想像だけれども――ぼくは作り手たちの意識のなかに朝鮮戦争があったのではないか、という気がする。というか、いくぶんこじつけめいて聞こえるとしても、そうよりほかに考えられないのだ。
 周知のことではあるが、朝鮮戦争は「停戦」しているのであって、2008年のいまなお終結していない。38度線をはさんだふたつの政府は、現在も戦時体制を敷いている。また、それは日本と無関係なことではまったくない。


私にも話させて : リベラル・左派からの私の論文への批判について(2)

何回も強調しておく必要があるが、日本の「平和憲法」と韓国の「徴兵制」はワンセットだ。韓国の権赫泰の言葉を借りれば、「アメリカが軍事的リスクを負担し日本が軍事基地を提供する日米間の「役割分担」により、建前としての「平和路線」が維持された。このような日米の役割分担のなかで、日本には兵站基地、韓国をはじめとする周辺国には戦闘基地としての役割がそれぞれアメリカによって与えられた。」「日韓関係にそくして考えるならば、日本の戦後民主主義が・・・周辺諸国の「軍事的犠牲」の上に乗っかっている・・・。日本が本格的な軍隊を保有しなくても「平和体制」を維持できた理由は、アメリカの対アジア戦略に組み込まれ、米軍基地の75パーセントを沖縄に駐屯させ、また韓国が日本の戦闘基地あるいは「バンパー」としての役割を引き受けたからである。言い換えれば、周辺諸国が軍事的リスクを負担することによって、戦後「平和体制」が維持できたのである。わかりやすくいえば、韓国の厳しい「徴兵制」は日本の「軍隊に行かなくともいい若者の当たり前の権利」と関連しあっているということである。」(権赫泰「日韓関係と「連帯」の問題」『現代思想』2005年6 月)


 引用した文章にみられる認識は、ぼくにとって目のさめるようなものなのだが、バイファムの作者たちにも80年代において先駆的に意識されていたことなのではないか、なんてことも想像してしまうのだ。
 空間認識において「日本」を東アジアおよび北アメリカから切り離し、また時間認識においては「戦後」という時代区分をもうける。そうした認識操作のもとで、「1945年からこっちの平和な日本」などというイメージが語られてしまう。そういうイメージへの批評性を、バイファムから読みとることもできるのではないかと思う。だからこそさきに述べたように、作者たちによって、13人の仲間たちを地球とククト星へと離散させる、という結末が選択されたのではないだろうか。よく見ろよ、ぜんぜん「平和」でなんかないぜ。「戦争が終わった」なんてどこの話だ?




 あとそれから、話はそれるけど、この作品が「他者」との相互理解の可能性について、徹底的にオプティミスティックに描いているところには、なんか泣けた。異星人もわれわれ地球人とおなじ「人間」で、かならず解りあえるはずだ、と。
 意地のわるい見方をすれば、おい、もしも異星人が足が8本くらいあるやつで、体表は紫の粘液でぬらぬらしていて、口からシューシュー泡をふきながら金属をこすりあわせるような声をたててしゃべるようなやつだったら、それでもおまえ異星人とのあいだに友情や愛が成立すると言うのか、などということはいえるのかもしれない。バイファムで描かれる異星人は、姿も立ち居ふるまいもあまりに「人間的」ではあって、これはご都合主義的な他者表象じゃあないのかい、なんてことも思わないでもない。
 しかし、性善説にたって他者を表象する(ある立場からすれば、そんなもん「他者」じゃねえ、恣意的な自己投影にすぎないんじゃい、ということになるのかもしれないが)というスタンスは、すごくなつかしい感じがした。サリン事件や拉致問題からこっち、他者表象は醜さを競うみたいな状況があって、ぼくはそんなわけはねえ、そんなはずはないよ、とつねづね違和感をいだいてきたから。




 さて、このたびバイファムについては、ぼくはもうローティーンではなくて、それなりに歳をくったのだから、もっと批判的に言うべきこともあるようにも思うのだけれど、でもあかんね。ガキンチョのころに観たときの思い入れが深すぎて、距離をとって観るのは難しい。