窃盗有理

 生活苦による自殺。
 生活苦ということも、また自殺するという行為も、それ自体で十分に痛ましいことであるけれども、生活苦のその結果が自殺という行為であるということ、そのことはとりわけ痛ましく思う。街を歩けば食べ物のにおいが充ちており、いたるところでせわしなく貨幣がやりとりされ、こじゃれた建築物は――ただその美的外観をたもつためだけの――広々とした余白の空間を内部にかかえこんでいる。
 みずからの生活をみたすのに足りない者にとって、手をのばせばすぐに届くところに、あらゆる必要をみたすのに十分なものがあるのだ。にもかかわらず、手をのばさずにみずからの命を絶ってしまうということ、自分の生活をみたすにありあまる資源を目の前にしながら、死んでいくということ。
 自分だったらどうだろう、ということをときどき考える。いまはなんとか足りているけれど、そのうちどうなるかはわからない。にっちもさっちもゆかなくなったとき、わたしは手をのばすだろうか。なんとなくだけど、わたしもまた自分で自分の命を絶ってしまうような気がする。なぜだろう。よくわからない。


親子で排水溝ふた盗む 「生活が苦しかったので、お父さんを手伝った」と中2少女(産経新聞) - Yahoo!ニュース

 親子で排水溝のふたを盗んだとして、警視庁世田谷署が窃盗の現行犯で、さいたま市内の廃品回収業の男(43)と、中学2年の長女(14)を逮捕していたことが24日、分かった。長女は「生活が苦しかったので、お父さんを手伝った」と供述しているという。同署は余罪を追及する。
 調べでは、2人は19日午後9時すぎ、東京都世田谷区下馬にあるマンションの解体現場で、排水溝の鉄製のふた20枚(1枚5キロ、計6万円相当)を盗んだ。
 軽トラックで現場に乗り付け、男がふたを外し、長女が荷台に積み込んでいるところを巡回中の警備員に見つかった。


 声を大にして言いたいことは、じつはわたしの場合あんまりないんですけど、わたしの数少ない叫びたいことのひとつは、盗みを罪とするのが法ならば、そんな法はぶっこわしてやりたい、ということです。社会的な資源とは、万人に開かれているものでなければならない。そして、社会的資源はそれをもっとも必要とする者がまっさきに受け取れるのでなければならない。
 生活に困ったので、マンホールのふたを運んでお金に換えた。当たり前のしごくまっとうな行為である。どこに責められるいわれがある? こんなごく当然の行為が「罪」にあたるなどというふざけた法が、まさにブルジョア法であり、そのブルジョア法のいう私的所有権とやらの保護者が国家なのである。
「盗むな」すなわち「死ね」と人間に要求するような法と国家などぶっこわしてしまえ。
 マンホールの鉄のふたがあの困窮した父と娘の必要をいくばくかでもみたしたのであれば、これほど有効なふたの使いみちがほかにあるだろうか。
 たしかに、ふたはマンホールをふさぐ道具にもなる。しかし、そんな用途などどうだっていいではないか。道路に穴があいていたって、たいして困りやしない。たかだか自動車が道路を通れなくなるのと、まちがって落ちる人がでるかもしれない、という程度のことだ。さすがに人が落っこちるのはケガするし、すこしまずいので、「穴がふさがっていないので注意してください」と看板でもかけとくか、柵で囲んでおくかすればよい。それで十分にこと足りるのである。このとき、もしだれかがその柵にみずからの必要な用途をみいだしたなら、その人は柵を持ち去り、いっぽう柵は、みずからが柵である以上に有効な活用のされかたに出会うであろう。




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